うつ病生活

世界から孤立していた私の話7〜それでも私が自分のためにやっていたこと

前回からの続きになります)

母が入院してから、
母の家の維持管理をするために、
毎週末、
母の家を訪れていた私でしたが、
決して、
母のためだけに週末を使っていた訳では、
ありませんでした。

私は週末の土曜日、
午前中に自分の家の家事と用事を済ませると、
午後から母の家に行き、
母の家の家事等を行なった後、
そのまま母の家に泊まり、
翌日の日曜日、
午前中までに草取り等の母の家の雑務を済ませて、
午後からは、
母の家から車で1時間程の距離にある、
絵画教室に通っていました。

身体はかなりキツかったのですが、
どんなにキツくて身体がフラフラしていても、
この絵画教室通いだけは、
続けようと心に決めていました。

そこには子供の頃、
母から散々聞かされた言葉が、
影響していました。

母のことが大好きだった父は、

「逃げたら血の果てまで追いかけて殺してやる。
俺は刑務所に入ることなんて、何も怖くないんだ」

母を脅していたため、
怖くて逃げることが出来なかったと、
小学生だった私は、
何度も母に聞かされて育ちました。

そして、その母の話には、

「お前達(兄と私)もいるし、
(母を探す父のために)親戚にも迷惑がかかるから」

という言葉が添えられ、
その言葉を聞かされるたびに私は、

兄と私の為に犠牲になっている母

の存在を感じ、
そして、そんな母の状況を打開出来ない、
自分の力の無さを思い、
母に対して申し訳ない気持ちを抱いていました。

そのため、大人になった私は、母に父と離婚したら面倒をみると伝えていました。
けれど結局、母が父と離婚することは、ありませんでした。

そんな思いを抱えながら成長した私は、
自分ではどうしようも無い状況で、
誰かが自分のために犠牲になっていると、
言われる辛さがよく分かっていたため、

誰かの面倒を、
見なければいけない状況で、
自分のやりたいことを諦めない

という目標を、
ずっと心の中に掲げて生きてきました。

それは、
自分が何かをしてあげた相手に対して、
後から恨み言を言わない為に、
自分に課した目標でもありました。

もちろん、誰かの面倒をみるという、
大変な状況下で、
自分のやりたいことが全て出来る訳ではないため、
そのやりたいことは、
何でも実行出来る訳ではありません。

そのため、入院した母と、
母の家の維持管理を実施する中で、
これをやり続けることが出来たなら、
後から何かあっても、
今の、この状況を後悔しないだろうと思った、
その"やりたいこと"というのが。

母が入院する前から通っていた、

絵画教室に通い続けること

だったのでした。

特に、急に母が入院した、
この時は。

人生で初めて、
絵画教室の先生の指導のもと、
公募展に自分の描いた絵を応募するという、
挑戦に取り組んでおり、
その応募締め切りが迫っていたため、

「母の入院のために自分の絵が間に合わず、
応募出来なかったら、
母を恨んでしまうかもしれない」

との思いから、
せめて日曜日の午後だけは、
絶対に休まず教室に通い続けるのだ、
と心に決めていたのでした。

同じ公募展に応募する他の生徒の方の中には、締め切りに間に合わないため、教室に通う回数を増やす方もいらっしゃいました。

そうして何とか、
応募に間に合わすことが出来た私の絵は、
(完成した、とは言えない状態でした)
入選という結果を与えていただき、
私の人生で初めて、
自分の絵が人様の目に触れる場所に、
飾られることになりました。

タイトルは「憧憬」

子供の頃の
家から逃げ出したかった気持ち
を描きました。

この時は、
本当に心身共にキツかったけれど、
自分のやりたいことを諦めなくて良かったと、
心から思います。

お陰で、この後に母から、
私はかなり酷い対応を受ける事になるのですが、
母の入院のために、
一生懸命頑張ったこの期間は、

"キツかったけれど楽しかった思い出"

として、
私の中で微笑ましく思い出すことが出来る記憶に、
することが出来たのでした。

世界から孤立していた私の話8〜またしても大活躍した娘に続きます。