プロフィール

生まれた時に父親から「要らない」と言われた子供

「子供は親に望まれて生まれてくる」

きっと多くの人が、
なんの疑問も持たずにそう思っていると思います。

でも私は生まれた時に父親から、

「女の子なら要らない」

と言われ、
この世に生を受けたことを、
祝ってもらえなかった子供でした。

そのため私の名前は、
産後、入院していた母親が、
1人で病院のベッドで考えてつけたのだと、
小学生の時に母親から知らされました。

このことは、
自分1人の胸のうちにとどめていましたが、
私が父親に望まれなかった子供だということは、
親戚中の人間が知っていました。

なぜなら、
お盆やお正月に親戚が集まると、
決まって出る話題だったからでした。

酒を飲んでご機嫌になった父親は、
よく私と親戚を前にして、

「お前が生まれた時に、
女の子なら要らないと言ったら、
その言葉を聞いた叔母さんが、
“じゅんは私が連れて帰る”
と怒って俺に言ってきたんだ」

と笑って話していました。

父親は、
親戚の集まりに参加していたその叔母さんの、
怒った剣幕が面白くて、
毎回その話をしていたようなのですが、
小学校に上がる前の幼い私は、
ただひたすら、
父親の心無い言葉に傷つくばかりでした。

結局、その父親は、
亡くなるまで私の誕生日を覚えることも、
年齢を把握することもありませんでした。


『あなたは この世に のぞまれて
うまれてきた たいせつな人』

こんな言葉を、
生まれてすぐに贈られる赤ちゃんは、
なんて幸せなんだろう。

生まれた時に、
父親から「要らない」と言われて、
父親から死ぬまで愛されなかった私は、
子供は親に望まれて生まれて、
愛される存在だと、
思い込んでいる人たちを見ると、
世間の一般常識と、
自分の育ってきた環境の違いに、
やはり今でも、
涙が流れてしまうのでした。

母親から「お前のことは理解出来ない」と言われた子供

「お前のことは理解できないから、
放っておくことにする」

これは私が小学校低学年の時に、
母親から言われた言葉です。

小学校に入学した私は、
とても人と違った言動が目立つ子供でした。

テレビドラマを真似て、
授業中にこっそり机の間を伏せて通ってみたり、
給食で自分の好きなプリンを一番に食べて、

「誰かデザートのプリンから、
先に食べている人がいる」

と担任の先生から言われたら、
自分が呼ばれたと思って手を上げてみたり。

かと思えば、
学校で自分の嫌なことを、
強要されるのが耐えられなくて、
教室で机や椅子を投げて暴れて、
怒った先生から、
廊下に出されて自分の存在を無視されると、
なんとか自分に注目して欲しくて、
廊下に置いてある植木鉢に
水をやる如雨露で、
廊下を水浸しにしたりしました。

優しい若い女の先生では
授業中に暴れる私を持て余した為、
中年の男性体育教師がやってきて
暴れる私を止めようとしたのですが、
体格差で、
明らかに負けると分っているにも関わらず、
全校生徒が集まってきて見守る中、
私は体育教師に体当たりを2回繰り返し、
平手で思いっきり、
張り飛ばされました。

私が自分の思ったとおり行動すると、
何故か皆んなから、
笑われるのがストレスでした。

私には皆んなが暗黙で守っている、
学校のルールが理解出来ず、
集団の中で、
どのように自分が振る舞えばいいか、
全く分っていなかったのです。

そのイライラが、
暴れるといった行動として、
表現されていたのだと思います。

きっと今の時代なら、
発達障害の診断がついたり、
養育を勧められた子供だったでしょう。

実際、私は大人になって、
自分の生きづらさの原因が知りたくて、
精神科を受診し、
発達障害の検査を受けた結果、
発達障害に該当する人間であろうことが、
分かりました。

【自分が発達障害か知りたくて大人になって受けた検査(2019年4月)】

 受けた検査の内容
1 バウムテスト
2 ASRS(成人期のADHD自己記入式症状チェックリスト)
3 AQ(自閉症スペクトラム指数)
4 
WAISⅢ知能検査


【発達障害の総合的所見】と書かれたこの書類には、

「ASD(自閉症スペクトラム障害)の可能性が高いといえます。」
「AD/HDの可能性があります」
「不注意の傾向が高いといえます」

と記載されています。

でも私が小学生の時に、
発達障害といった知識がある、
先生や親は存在しておらず、
私はただ、

「学校生活に馴染めない問題児」

として扱われていました。

ちなみに、
WAISⅢ知能検査で分かったのですが、
私のIQは、

全検査IQ:132、
言語性IQ:134、動作性IQ:125
知的水準:特に高い

と、平均より高めであり、
私の学習能力に問題はなく、
かえって勉強はできる方の子供だったため、
さらに、
私の能力に問題があるとは考えられず、
ただ学校に反抗だけしている子供として、
大人達の目には映ったようでした。

そんな子供を持った母親は、
大変だったのだと思います。

私が小学校低学年の時、
母親から、
他の子のように振る舞えない私のことを、

「どうしてお前は、
他の子と同じように出来ないんだろうね」

と、ひとしきり嘆かれた後、

「もうお前の事は放っておくことにする」

と言われました。

子供の頃、
私は母親のことが大好きでした。

だから母親の望む子になりたくて、
他の子と同じように、
振舞おうと頑張るのですが、
なぜか、
同じようにすることが出来ないのです。

そんな自分のせいで、
母親を悲しませていることが、
小学生の私は辛くてたまりませんでした。

だから、
母親から向けられたこの言葉によって、
母親が自分に普通を強要しなくなり、
私が原因で、
母親が悲しむことは無くなるのだと思うと、
ほっとして、

「ありがとう」

と心からお礼を言ったのですが、
それは母親の、
望んでいた返答では無かったらしく、
そのことでまた怒られてしまいました。

私に悪気はないのですが、
自分の思ったことをそのまま口にする為に、
相手を怒らせてしまうことが、
たびたびありました。

私はどうやったら、
普通になれるのかさっぱり分らずに、
小学校低学年の時に、
同級生の、
仲の良かった女の子にそのことを相談し、

「じゃあ私の真似をしたらいいよ」

と言われて、
その子の真似をするようにしたのですが、
しばらくすると、
その女の子は

「親からあなたと遊ばないように言われたから」

と言って、
私から離れていってしまいました。

人との関わり方が分からずに、
母親の望む普通の子になろうと、
もがき苦しんでいた私に、
母親が、
手を差し伸べることはありませんでした。

小学生の私が母親からもらう言葉はいつも、
私に対する否定の言葉だけでした。

学校生活には馴染めなくても、
勉強はできた私が、
テストで良い点を取ってくると、

「勉強だけ出来たって駄目なんだよ」

と、
冷たい声で言いました。

そのため母親に好かれたかった私が、
勉強をしないようになると、
今度は、

「勉強も出来ないなんて」

と私を侮蔑するように言いました。

私にはもう、
どうやったら母親に好かれるのか、
全く分かりませんでした。

言動の変わっていた私は、
学校で学年を問わず、
様々な生徒たちから虐められ、
家庭の中では、
父親から虐待を受けていました。

生きることが辛くて、
誰かに助けてもらいたいと、
いつも必死に願っていましたが、
何度も、
母親に好かれるように努力して、
そのたびに、
母親を求める手を振り払わてきた私が、
救いの手を母親に求めることは、
もうありませんでした。

兄から「お前さえいなければ」と言われた子供

父親から、
出生を望まれなかった私でしたが、
だからといって、
育児放棄された訳では、
ありませんでした。

小学校に上がるまでは、
私が集団行動に馴染めないことは、
問題にならなかったため、
幼稚園生までの私は、
母親から一般的な愛情を、
かけてもらうことが出来ました。

けれど、
家庭内で絶対君主のように、
振舞っていた父親から嫌われていた私は、
食事を得ることさえ、
簡単ではありませんでした。

食い意地が張っていた父親は、
自分の好物が夕飯にでると、
母親が私のために用意してくれた分まで、
取って食べてしまっていたからです。

小学校に上がる前の幼い私にとって、
大人の中でも体の大きな父親から、
自分に向けられる暴言や暴力は、
とても恐ろしいものでした。

そんな父親の恐怖に毎日晒されていた私は、
父親の目の前にいると、
喉の奥が腫れたように感じられて、
言葉を発することが出来ない、
状態になっていました。

これもやはり、
大人になって知ったのですが、
私のこのような状態は、

場面緘黙症

と呼ばれる、
情緒障害の一種だったようです。

私のこの場面緘黙症は、
父親に対する恐怖によって、
引き起こされたのですが、
父親はそんなことに一向に構うことなく、
父親に対して、
声を発することが出来ない、
私の状態をよいことに、
自分の好きな夕飯のおかずが出ると、
私の皿に手を伸ばし、

「じゅん、お前はこれ嫌いだろう。
俺が食ってやるからな」

と言って、
私から夕飯を取り上げるのが常でした。

大好物の夕飯を取り上げられても、
場面緘黙症により、
父親に対して、
抗議の言葉を発することが、
出来なかった私は、
ただ声を上げずに涙を流すことでしか、
自分の気持ちを表現することが、
出来ませんでした。

こんなに食い意地の張った父親でしたが、
私より1歳上の兄に対しては、
このような行動は起こしませんでした。

私に対して、
「女の子なら要らない」
と言った父親は、
男の子である兄のことが大好きだったため、
兄を邪険に扱うような行動は、
しなかったのです。

そのため、
父親から搾取される標的は、
家族の中でいつも一番立場も力も弱い、
幼い私でした。

ご飯を早く食べさせないと、
機嫌が悪くなる父親のために、
出来た料理から、
手早く食卓に並べていた母親は、
いつも決まって、
他の家族より少し遅く、
食卓についていました。

父親は、
母親が食卓にいる間に、
私の夕飯を取り上げると、
母親から怒られて、
私に返すように、
言われることが分かっていたため、
いつも母親が食卓に来る前に、
私から夕飯を取り上げて、
私に返さなくていいように、
いつも素早く口の中に放り込んでいました。

母親が食卓につくと、
空になった夕飯の皿を前にして、
声を上げずに泣いている私と、
大食漢のくせに、
目の前の自分の皿にまだ、
たっぷりと夕飯のおかずが載った、
父親の姿をみて、
私が夕飯をとられた状況を理解した母親は、
いつも私のために、
父親に怒ってくれました。

そんな母親に対して父親はいつも、

「こいつ(私のこと)が要らないって言ったんだ!」

「何も言わないこいつが悪いんだ!!」

と言い、
涙を流し続ける私に向かって、

「嫌なら嫌って言えばいいだろう!!!」

と真っ赤な顔で怒鳴りつけました。

この時のことを思い出すと、
恐怖と悲しみで、
50歳近くになった今でも、
喉の奥が腫れた感覚があって、
声を出すことを困難に感じるというのに、
この時の幼児である私に、
父親に抗議の声を上げることなど、
出来るわけがありませんでした。

けれど、1歳上の兄にとっては、
父親のいうことが、
最もだと感じたようでした。

ある時、
私は兄から憎しみの籠った声で、

「お前さえいなければ
うちの家族は上手くいくのに!!」

と言われました。

父親から夕飯をとられるのは、
自己主張しない私が悪くて、
そんな私のために、
父親と母親が喧嘩になることが、
腹立たしかったようでした。

しかも、
私のことを嫌っていた父親は、
私の存在自体がイラつくのか、
夕飯以外の件でも、
ことあるごとに私に対して怒鳴り散らし、
そんな父親に対して、
無抵抗でただ震えている私を守ろうと、
父親から私を庇おうとする母親が、
喧嘩になるのは、
ほぼ毎晩のことだったため、
兄はその考えに至ったようでした。


これが…


こうなることが、
たった1人の兄妹だった兄の望んだ家庭。

こんなに存在を望まれていなくても、
小学校に上がる前の幼い私は、
この家から出て行って、
どうやって生きていけばいいのか、
分からなかったため、
望まれないこの家に、
居座り続けるしかありませんでした。

自分の特性を知ることで変化した人生

私がこの、
家庭環境の中で生きていくためには、
自分の心を閉ざすしかありませんでした。

毎日をただ生きるのに必死で、
大人になった自分の未来など、
想像することも出来ませんでした。

「なんで私はこんなに生きづらいんだろう?」

自分の人間性が悪いから、
こんなに人に嫌われるのだと思い、
ずっと自分を責め続けて生きたきた私に、
人生の転機が訪れたのは、
たまたまテレビで、
発達障害という言葉を知った時でした。

発達障害の特徴を聞いた私は、

「自分のことだ!!」

と感じ、
今までの生きづらさの理由を、
見つけたように思ったからです。

それはずっと暗いトンネルの中を、
彷徨い続けていた私が、
ようやく見つけた一筋の光でした。

その後私は、
発達障害を調べていくうちに、
専門家でも発達障害と見分けるのが難しい、
愛着障害という言葉も知りました。

自分が発達障害なのか、
愛着障害なのか悩んでいたけれど、
思い切って受診した精神科で、
自分がどちらにも、
当てはまることを知りました。

その時受診した精神科医からは、
発達障害は治らないと言われたけれど、
私は自分の、
生きづらさの原因が分かったことで、
自分の人生を変えられる、
と思いました。

なぜなら、

・発達障害は対応策を知ることで改善できる

・愛着障害は自分を癒すことで改善できる

と考えたからです。

私のこの考えは正しくて、
2つの障害の改善策を実施していった結果、
私はそれから2年ほどで、
自分の人生で、
生きづらさを感じなくなりました。

でも私という人間は、
思ったよりも強欲だったらしく、
最初は40年間にわたる生きづらさから、
解放されただけで喜んでいたけれど、
次第にそれだけでは、
満足できなくなってきました。

家族から要らないと言われ続けて、
生きてきた私は、
生きやすくなったからと言って、
自分のことを、

「生まれてきて良かった」

と思うことは、
まだ出来ていなかったからです。

「人生の最期に、
生まれてきて良かったと思いたい」

そう考えた私は、
今まで自分の人生を、
癒すために費やしてきた時間を、
今度は自分の夢を叶えるために、
費やすことにしました。

夢は大それていればいるほど、
自分の人生が愉しくなる気がしました。

そうして掲げた夢が、

アラフィフから画家になる

というものでした。

何かを成し遂げようとするのには、
かなり遅い年齢であることは、
自分でも自覚しています。

でも、生きるだけで精一杯だった私が、
自分の人生に期待して、
夢を持とうと思えるようになったのが、
人生も半ばを過ぎた、
アラフィフという年齢の時だったのです。

だから。

「今日が人生で一番若い日」

そう思うことで自分を鼓舞して、
生きていこうと思います。

人生の最期を、
笑って迎えられるように。