私の成育歴

マルトリートメントと私28."穴熊ちゃん"

ひきこもる子供
私がなぜ、自分の生育歴を振り返るようになったのかは、私が自分の成育歴を振り返ることにした理由をご覧ください。
私の成育歴の記事一覧は、愛着障害に関する成育歴にあります。

※自分の記憶に基づいて書いているため、事実と違っている可能性があります。

私が小学校3年生に上がる頃、
父が入院していたことがありました。

手術を伴った入院だったため、
父は数週間ほど入院していました。

父が手術する時には、
母も泊まり込みで付き添ったため、
私と兄は手術前後の3日間ほど、
親戚の家に預けられました。

その家はとても躾に厳しい家だったため、
あまり躾を受けておらず
ASD(自閉スペクトラム症)で、
食べ物の好き嫌いが激しい私には、
過ごし辛い家でした。

親戚の家から、
手術が終わった父に会いに行く時、
私は父に対してお見舞いを渡そうと、
道端に咲いていた花を摘んで手に持ちました。

それはオオイヌフグリという雑草で、
とても小さな青い花でしたが、
躾の厳しい親戚の家で私が用意出来た、
唯一のお見舞いの品でした。

私がそっとその花を手に持って車に乗るのを、
眼ざとく、
預けられていた親戚の家のお姉さんが見つけました。

「なにそれ?お見舞いのつもり?」

親戚の家のお姉さんに鼻で笑われて、
私は恥ずかしくなりました。

私はすぐに、手に持っていた小さな花を、
車の外に投げ捨てました。

(お父さんはこんなもの私にもらっても喜ばない)

父親に子供が出来ることを好意でしても、
価値がなければ、
子供のやることでも受け取らない、
そんな経験は何度もしているはずなのに、
親戚のお姉さんに笑われるまで、
気付かなかった自分をバカだ、と思いました。

私は父の病院に行っても特に話すこともなく、
ただ胃潰瘍で切除した大食漢の父の胃が、
常人の3倍以上あったという話を、
ぼんやりと聞いていました。

さらに父は長い入院生活で親しくなった、
同じ病室の患者の人から教わった、
絵の描き方が気に入ったようで、
自慢気に自分に絵を教えてくれた、
患者の人の絵を見せると、

「退院してから俺も描く」

と、嬉しそうに話していました。

なんの気なしに聞いていたのですが、
実はこれがこの後、
家での苦痛を跳ね上げる原因になるとは、
思ってもみませんでした。

その頃に私が住んでいた家には、
机は六畳の居間にあるコタツと、
隣の和室にある兄と私の学習机だけでした。

居間のコタツは、
テレビを見たり食事をしたりといった、
家族で使う団らんの場所でした。

退院してきた父は早速、
教わった通りの絵の道具を揃えると、
居間にあるコタツに座って、
絵を描き始めました。

コタツは一辺が90センチほどの正方形で、
家族4人がそれぞれの辺に1人座ったら、
それでいっぱいになるくらいの、
小さなものでした。

父が絵を描く画板をコタツに置くと、
その一辺からはみ出して、
私が座っていた場所まで届いたため、
私は動くたびに、
よく父の画板にぶつかり、
父に怒られました。

「動くな!!」

これは、小学校3年生の子供には、
とても守ることが難しい命令でした。

父が絵を描いている時には、
動くことも喋ることも、
テレビを見ることも禁止されました。

父から怒鳴られた私は、
コタツにいる時は座るのではなく、
画板にぶつからないように、
コタツの中に潜りこんで、
寝転がるようになりました。

けれど成長するにつれて、
体が大きくなってきた私は、
コタツに潜りこんだ体を反転させる時、
コタツの足組の上の部分に、
体が当たるようになってしまいました。

「動くなって言ってるだろう!!」

父に激怒された私は、
コタツに入ることを諦めました。

私は家の中での身の置き所に困りました。

居間の隣に置いてある自分の学習机は、
以前机で自分の夢を書き綴っていた時に、
背後から母に覗き見されたことと、
悲しい記憶に繋がっていること、
何より自分以外の家族3人が、
隣の居間でコタツに座って、
団らんしている声が聞こえる場所に、
(父が絵を描いている時も、父が話しかけた場合は話すことが出来ました)
1人でいることは、
いくら家族は敵だと心に決めたとしても、
とても辛いものでした。

なぜなら私は、
自分から積極的に家族を嫌った訳ではなく、
家族に必要とされない、
理解してもらえない寂しさから、

「この家族は敵だ」

と自分に言い聞かせることで、
自分の心の安定を、
図っていたに過ぎなかったからでした。

私は自分が孤独に苛まれることなく、
安心して居られる場所を、
家の中で探し回りました。

そして、縁側の端にあった、
一畳にも満たないくらいの大きさの、
物置に目をつけました。

そこには灯りをつけるための裸電球が1つ、
天井からぶら下げられていて、
使われていないコタツ布団が、
置いてありました。

居間からも部屋1つ分隔てられているため、
他の家族の声も、
あまりハッキリ聞こえませんでした。

私は食事をしたり寝たりする時以外の、
家にいる時間の大半を、
ここで1人で本を読んで、
過ごすようになりました。

そこは物置だったために薄暗く、
窓もないような場所で、
私の視力はどんどん落ちていきましたが、
その家の中で唯一、
私が安心して居られる場所となりました。

けれど私のそんな平安は、
長くは続きませんでした。

ある日、何を思ったのか父は、
居間からすぐにいなくなる私が、
どこに行っているのか興味を持ったらしく、
兄を伴って探しにきたのでした。

もしかしたら、
母も兄も、
私がいつも物置にいることは知っていたため、
私の居場所を父に聞かれた兄が、
父を案内してきたのかもしれません。

6畳間が4つの平屋の家屋の中で、
人が隠れられる場所など殆どなく、
私の唯一安心していられる居場所は、
あっという間に、
父に知られることとなりました。

父は物置に1人で座っている私を面白そうに、
笑いながら見下ろしていました。

「なんだぁ、じゅんはこんな場所が好きなのか」

それは人を馬鹿にした、
とても不愉快な笑いでした。

私は何の言葉を発することもなく、
じっと下を向いて黙っていました。

「こんな場所が好きなんて、じゅんは穴熊と一緒だなぁ」

私は父の言葉に対し、
やはり身を固くしたまま動きませんでした。

「穴熊ちゃん、穴熊ちゃん」

父は私を揶揄するように、
しばらく兄と一緒に私を囃し立てました。

私はそれでもずっと、
無言のまま身動きすることなく、
ただこの嵐が過ぎ去るのを待っていました。

父は何の反応もしない私が、
つまらなかったのか、
しばらくすると物置からいなくなりました。
もちろん、兄も父に付き従っていきました。

けれどこの訪問は、
父が暇を持て余していたり、
何か嗜虐的な気持ちになったりすると、
たびたび行われるようになりました。

「穴熊ちゃ〜ん、またここにいるのぉ?」

馬鹿にしたような笑いに、
私は心を殺して必死に耐えました。

私のポケットの中のお守りのカッターは、
この大人の中でも体が大きい男に対しては、
猫の爪ほどの威力しかないことは、
自分でよく分かっていました。

私は父に対して無力でした。

母も兄も、
父のこの行動を止めてはくれませんでした。

家族の中の誰1人、
何で小学校3年生の子供が、
夏暑く冬寒い物置に、
1人でこもろうとするのか、
考えてくれることはありませんでした。

マルトリートメントと私29.子供の限界に続きます。