私の成育歴

マルトリートメントと私38.死ぬという希望

遺影
私がなぜ、自分の生育歴を振り返るようになったのかは、私が自分の成育歴を振り返ることにした理由をご覧ください。
私の成育歴の記事一覧は、愛着障害に関する成育歴にあります。

※自分の記憶に基づいて書いているため、事実と違っている可能性があります。

四六時中、
父から寝ている時にされていた行為の、
記憶と手に残る感触に苛まれていた私は、
発狂して叫び出したいような感覚に、
囚われるようになっていました。

「このままでは私は狂う」

そのように感じた私は、
自分を救う術をずっと探していました。

けれど母親に助けを求めることも出来ず
学校からも問題児認定されていて、
ご近所にも迷惑行為を行なっていた
あまり関わり合いたくない家庭の私に、
大人からの援助の手が、
差し伸べられることはありませんでした。

苦しい、苦しい、苦しい。

この頃には、
以前から感じていた、
肋骨の裏がつったような痛みは、
かなり頻繁に起きており、
そのあまりの痛さに、
呼吸が出来なくなることも、
たびたび起こっていました。

私はよく痛さに座り込み、
喘ぐように大きく口を開けて、
息を吸い込もうとするたびに感じる、
肋骨の裏の内臓が捻り上げられて、
針でつかれたような鋭い痛みに、
ずっと耐えていました。

私はこの痛みのことを、
家族にも誰にも、
話したことはありませんでした。

そして、ある時、
私はこの痛みに耐えながら思ったのです。

「こんなに激しい体の痛みが続くのだから、
きっと私は長生きしない」

「きっと私は、何かの病気に違いない」

この考えは、
ずっと発狂しそうなほど、
苦しかった私の心に、
希望を灯してくれました。

この痛みに耐え続けていれば、
いつかこの病気は進行して、
私は死ぬことになるのだ、
と思いました。

死ねばこの気が狂うような毎日が終わる。

そう考えることは、
私の心をとても安らかにしてくれました。

それから私は、
呼吸が止まるほどの痛みに襲われながら、
その痛みに喜びを感じるようになりました。

痛みが激しくなればなるほど、
私は自分が死に向かっているのだ、と感じて、
苦しかったけれどホッとしていました。

私は自分が

「子供のうちに死ななければいけない」

と考えていました。

それは子供で無くなってしまったら、
父の私に対する行為がエスカレートすると、
感じとっていたからでした。

その頃の私にとって、
子供で無くなる境界線は、
小学生と中学生の間でした。

私は自分が小学生の間に、
この肋骨の裏が、
つったように痛む病気が進んで、
死ぬことを望みました。

私は子供の頃、お寺で行われていた日曜学校に通っていて、
自殺したら死んだ後も苦しむと教わっていたため、
こんな苦しみが永劫続くことには耐えられないし、
死んだ後には安らかな世界に行くことを望んでいたため、
どんなに苦しくても自殺はしてはいけないと思っていました。

そしてその望みは、
私の心の支えとなり、
その望みのあまりの強さ故に、
私の中で、
確定事項となっていきました。

私は12歳で死ぬのだ。

それは私にとって、
あらゆる苦しみから解放してくれる、
魔法の言葉でした。

その魔法の言葉のおかげで、
私は父からされる毎晩の行為に、
気が狂うことなく、
耐えられるようになりました。

どうせ死ぬのだからと、
家を出るためにコツコツと貯めていたお金も、
使うようになりました。

兄はよく、
私のお金をあてにするようになり、
貯めていた私のお金は、
あっという間に無くなりました。

でも、それでも構いませんでした。

私が小学校を卒業する前に死ねば、
家を出て行くためのお金など、
必要がなくなるのです。

皮肉なことかもしれませんが。

「私は死ぬのだ」

という思いだけが、
この頃の私を生かしておいてくれたのでした。

マルトリートメントと私39.現れた救いに続きます。