(前回からの続きになります)
2022年は、
母の入院で大変な年となりましたが、
明けて2023年は、
親戚の方々が立て続けに鬼籍に入るという出来事で、
大変な年となりました。
この年の5月には、
毎年、必ず、
お盆とお正月の挨拶に伺っていた、
伯父さんが亡くなったと、
朝の9時前に従姉妹から連絡があったため、
私はすぐに、
伯父さんの家に駆けつけようとしたのですが、
職場に伯父が亡くなったため、
早退したいことを伝え、
どうしても急ぐと言われた仕事を、
全て片付けて、
職場から車で1時間強の距離にある、
伯父さんの家に駆けつけることが出来たのは、
午後5時前でした。
(ちなみに昼食も摂らずに働いています)
この時にはさすがに、
母と距離を取りたいなどどは言っておられず、
私は母の家に泊まって、
翌日の通夜や、
翌々日の告別式に、
母を自分の車に乗せて、
母と一緒に参加しました。
母と一緒に葬儀に参加するのは、
私にとってもありがたいことでした。
中学生の頃、
担任教師から家庭訪問で、
変わっていると言われ続けていた私は、
やはり、親戚の間でも、
関わりたい人間とは、
あまり思われていなかったようで、
この亡くなった、
伯父さん家族以外の親戚とは、
私は30年以上、
ほとんど顔を合わせておらず、
母がいなければ、
葬儀に集まっていた親戚達が、
誰なのかさえ、
全く分かりませんでした。
それは高校を卒業後、
他県の大学に進学し、
大学のある県に就職してから30年以上、
帰省しても実家にしか顔を出さなかった、
兄も同じだったようで、
私から、
伯父さんが亡くなった連絡を受けた兄は、
遠くに住んでいたため、
告別式だけ参加したのですが、
私が足の不自由な母の分も受付を済ませて、
参列者の席に向かうと、
私より少し遅れて受付を行ったけれど、
自分の分だけだったため、
私より早く受付を済ませた兄が、
母の隣の席に座っていました。
兄は他県に就職するまでは、
親戚のおじさん達にも可愛がられており、
親戚が集まるような場所で、
母のそばに居ることは無かったため、
自分が不義理をしていて、
おじさん達の中に居場所が無くなったからと、
それまで私が居た場所である母の隣に、
当然のように座っている兄に、
若干、腹が立ちましたが、
自分を蔑ろにされた出来事から、
母と距離を取ろうとしていたくせに、
知らない親戚達の中で身の置き所が無いからと、
また、母の隣にいようとする私も、
虫がいいのは兄と同じだ、と考え、
私は黙って、
ある懸念を抱えながら、
母の分の香典返しまで一緒に持って、
空いていた母と兄の後ろの席に座りました。

そして、その、
私の抱えていた懸念は、
見事に的中しました。
今まで母の傍に居ることなく、
母に対する細かな気遣いなどしてこなかった兄は、
告別式の最中、
故人に対する焼香を促されると、
歩くのが不自由な母を顧みることなく、
さっさと自分1人で、
故人の前に設置されたご焼香台に、
歩いていってしまったのです。
(やっぱりか)
予想通りの兄の行動に、
私は本来なら席順通りに立ち上がるはずの、
ご焼香の順番を飛び越して、
迅速に母の後ろの席から立ち上がり、
椅子からヨロヨロと立ち上がろうとしていた、
母の手を取り、
母と一緒にご焼香に向かいました。
こんな厳かな場所でのマナーを、
酷く気にしてしまう私でしたが、
幸いなことに、
私が顔をよく知らない周囲の親戚達は、
私が母の娘だということを認識してくれていて、
逆に私に母のサポートをするよう、
促してくれたため、
私は気に病むことなく、
これらの一連の行動を取ることが出来ました。
兄はそんな私の姿をみて、
母が歩くのに支えが必要だったのだと、
その時、初めて知ったようでした。
この出来事から数ヶ月後、
別な親戚の葬儀で、
やはり母と兄が隣に座り、
やはり母の受付まで一緒にしていた私が、
母の近くに席が空いていなかったため、
少し離れた席に座った際も、
また兄は、
母を置いてご焼香に向かおうとしたため、
私がまた、
前回のように、
母を支えようと立ち上がった際は、
兄はそんな私の気配に気付いて、
自分が母を支えようとし、
母もまた、
私が出した手ではなく、
兄の手を取って、
歩き出しました。
そして、ある時の、
別な親戚の葬儀では、
兄は何を思ったのか、
「会社で余ってたから持ってきたんだけど、
俺は誰が誰か分からないから、
じゅんから渡してくれないか?」
と、
自分の勤める会社の商品が大量に入った紙袋を、
私に渡してきました。
その紙袋の中に入っていたのは洗剤で、
何で故人の死を悼む場所で、
私がそんなことをしなきゃいけないんだ、
とイラつきましたが、
結局、私は兄から紙袋を受け取り、
最近、親戚の葬儀が立て続けに起こって、
顔を合わすことが増えたため、
ようやく顔と名前が一致するようになってきた、
そこまで親しくはない親戚達に、
「こんな場にすみません、兄が何か持ってきて…」
と洗剤を配り歩きました。
後から考えたら、
嫌だったら断ればいいのに、
何で兄の、
そんな非常識なお願いを聞いてしまったのかと、
自分にもイラついたのですが。
よくよく、自分の心の中を覗いてみると。
子供の頃は、兄の方が親戚達に可愛がられていて、
そのことを羨ましく思っていた私が、
今は親戚達と(親しくはないにしても)、
兄より面識があるという優越感と。
母が。
母の傍で母を気遣い、
母の葬儀の受付や会場までの移動を担い、
母がご焼香に向かう際に、
よろけた母に、
先に手を伸ばした私ではなく、
後から母に助けが必要だと気付いて出した、
兄の手をとった時。
私は。
母にとっては簡単に、
兄にすげ替えられる存在なのだという、
自分の存在の軽さを自覚して、
虚しくなっていた時に、
兄から頼られた、という事実が嬉しくて。
兄のお願いを聞いてしまったのだ、
と気付き。
そんな、
自分の兄に対する虚栄心と、
自分で自分の存在価値を認められなくて、
嫌っている相手からでさえ、
頼られることに喜びを感じてしまう、
自分の悲しい愛着障害者の性を、
このままにしておいてはいけない、と感じ。
私は人に利用される自分から脱却するために、
少しずつ、
行動を起こし始めたのでした。
世界から孤立していた私の話16〜初めての美術展入賞を母へ報せた結果に続きます。