(前回からの続きになります)
私の勤めていた会社では、
管理職は2〜3年で転勤を行うこととなっており、
私が昇進した課長補佐という役職は、
係長という最初の管理職の次の役職にあたるため、
新しく就任する課長補佐は、
基本、
他所の支社や営業所から転勤してくるのですが、
私は転勤することなく、
係長として働いていた支社でそのまま、
上の役職にスライドして、
課長補佐として勤務することになりました。
転勤せずに課長補佐に就任する人事は、
異例なものだったのですが、
そこには、
私が昇進して新しく就いた課長補佐という役職が、
5年に1度会社が総力を挙げて行っている、
重大プロジェクトの、
各支社・営業所での実務責任者となっており、
その業務の重圧と大変さから、
その年に課長補佐になりたがる者がいなかったことと、
支社長としても、
生半可な者を就けてしまっては、
そのプロジェクトが進まず、
最終的に支社長である自分が、
責任を被ってしまう恐れがあるため、
仕事が出来ると認めていて、
5年前に他所の支社でそのプロジェクトを担当し、
成功させていた私を、
課長補佐に就任させよう、
といった思惑があったようでした。
ただ私も、
最初から大変だと分かっている役職を、
どんなに支社長や課長から褒めそやされたとしても、
引き受けたいとは思っていませんでした。
支社長は重大プロジェクトが行われる年も、
現在の支社で働くことが決まっていましたが、
私に対して、
「(厄介者という)噂は当てにならないと思った」
という、
私の長年の、
会社勤務での苦労経験から培われた、
人とのコミュニケーション能力を認めてくれるという、
1番嬉しい評価を私に下してくれた課長は、
その重大プロジェクトがある年には、
他所の支社へ転勤することが決まっており。
5年前に、
そのプロジェクトの実務責任者を担当した私は、
その当時の課長が、
部下に仕事を押し付けるタイプだったため、
1人で酷く苦労して、
そのプロジェクトを成功させたにも関わらず、
どのような手段を用いてか、
その成功の結果全てを、
自分の手柄として上に評価された課長から、
「会社の要求だから」
とプロジェクトが終了した途端、
他所の営業所に飛ばされた経験があった私は、
「もう2度と上司に利用されたりしない」
と心に誓ったため。
その支社で、
すでに係長として2年勤務していた私は、
課長補佐に就任して、
1年をかけて行われる、その重大プロジェクトの、
実務責任者になってしまったら、
いいように苦労だけ押し付けられて、
また、プロジェクトが終了した途端、
他所に飛ばされてしまうと考え。
管理職は業務上の不正を防ぐ観点から、同じ支社・営業所に2年以上3年以下の期間で勤務することが会社の規定で決まっているため。
昇進を断って係長のままで勤務しようとしていた私に、
私を評価してくださった課長は、
私を人気のない場所に呼び出してこう言いました。
「係長のままなら今の支社に後1年しか居られないけれど、課長補佐に就任したら、今の支社に後最低2年居られるよ。
1つの管理職名で同じ支社に勤務出来るのが最長3年だからね。
お母さんのそばで勤務したいなら、あなたも課長補佐になった方がいいんじゃない?」
この課長の言葉は、
私の心に大変魅力的に響きました。
課長からこの話をいただいた時点で、
私は母と距離を取っており、
脳梗塞で倒れた母の様子を見るために、
実家に通うことは無くなっていましたが、
だからといって、
母を見放していた訳ではありませんでした。
母の入院時に、
私の娘が説得しなければ、
母の面会にさえ行かなかった兄が、
母に何かあった時に、
母の元に駆けつけるとは到底思えなかったため。
「母に何かあった時には私が母の元に駆けつけなければ」
と考えていたものの、
現在勤務している支社より実家に近い支社はなく、
次に転勤する時には、
兄よりも実家から遠い場所に転勤する可能性が、
高かった私にとって、
課長のこの言葉は、
聞き流せるものでは無かったのです。
さらに、
この時通っていた絵画教室の先生が、
私のASDの特性を好意的に受け入れてくれるという、
とても有難い存在だったため、
出来ることなら、
この先生の絵画教室に出来るだけ長く通いたい
という気持ちもありました。
ただ、私はそれまで、
支社・営業所での勤務年数のカウントは、
1人の個人が勤務出来る年数だと教わっており、
管理職名でカウントするとは聞いていなかったため、
その当時の人事担当者にも確認したところ、
「確かに課長が言うように、
管理職名で勤務年数のカウントを取っていいと言う特例がある」
と言われ、
私は母の介護と自分の絵画教室のために、
大変だと分かっていた課長補佐という役職を、
引き受けることにしたのでした。
ただ前回のプロジェクトを担当した時の課長に、
いいように利用されて捨てられた私は、
自分を評価してくれた課長の後にくる、
新しい課長への接し方は、
とても慎重になっていました。
私は新しい課長と、
良好な関係を築きたいと考えていたものの、
それまでの経験から、
初手で印象を悪くしてしまっては、
後から挽回することはとても大変だと、
知っていたからでした。
そのため、新しい課長が、
初めて支社に出社してきた時には、
以前勤務していた支社で、
一緒になったことがある方だったけれども、
その時は別な部署で、
お互い殆ど会話したことも無かったため、
「お久しぶりです。どうぞよろしくお願いします」
といった、
あくまで礼節を守った態度で、
接することにしていました。
だから、全く分かりませんでした。
なんで初めての挨拶の段階から、
新しい課長の自分への当たりが、
どうしてこんなにキツいのか

新しい課長は支社に着任する前、
私の他にもう1人部署にいる課長補佐Bと、
業務の関係で頻繁に、
メールや電話でやり取りをしていたのですが、
その時に新しい課長は、
私のことを知っているから、
自分の情報は、
私にも伝えてくれるように言っていたと、
課長補佐Bが私に言ってきていたため、
自分が課長の着任前から、
課長に嫌われているとは思っていませんでした。
そのため私は、
課長のあたりがキツいことによる、
多少のやり辛さを感じながらも、
自分が気にしすぎているだけだと思い、
精いっぱい仕事を頑張りました。
正直、人員が1人削減されたことに加え、
1年間の期間限定で再雇用されてきたOBが、
すぐにヒステリーを起こす厄介な人物だったため、
課長の当たりの強さを、
気にしている余裕がありませんでした。
まして、課長は私以外には、
優しいというよりは、
媚びへつらったと言う方が、
相応しい態度を取っていたため、
「あぁ、人に媚びを売り、
そのために溜まったストレスを、
自分より弱い誰かを捌け口にして、
解消するタイプの人間なのだな」
と感じていました。
課長の側近は課長補佐である私とBがいましたが、
Bは課長より年上の男性で、
支社でのトータルの勤務歴はかなり長く、
支社内で豊富な人脈を持っており、
そしてかなり気性が荒く押しの強い性格だったため、
課長はBの上司でありながら、
Bに対して何も言えないストレスを、
3月に課長補佐に就任したばかりで、
この支社での勤務歴はまだ2年しかない私に、
ぶつけているようでした。
でも、そのような人間には今までも接してきており、
ASDで人脈を築くのが苦手な私は、
よくこういった人間のターゲットにされていたので、
私はこの時はまだ、
新しい課長への接し方を、
模索していけば、
きっと状況は改善出来る
と考え、
自分のことは後回しにして、
人事異動でよそのチームから、
私のチームに入ってきた、
入社2年目の新人の女の子Sと、
他の営業所から転勤してきた、
私の後任の係長を特に気にかけながら、
毎日11時間ほど働くといった生活を、
続けていました。
そんな中、
Sは社会人2年目で、
優しい家族に囲まれて育ってきていたからなのか、
残業で私と一緒に職場に残っていた時に、
「課長は他の人には優しく話すのに、
課長補佐にだけ言動がキツくて、
私はあんな裏表がある人間が嫌いなので、
聞いてて具合が悪くなります」
と課長に対する嫌悪感を露わに、
私に自分の体調不良を訴えてきたため、
私は彼女への返答に困ってしまいました。
彼女の、
自分の感情と体調不良を全面に押し出した言葉は、
決して私への同情や気遣いなどではなく、
暗に、彼女の体調不良は、
私が課長に虐められていることが原因であるため、
私に現状改善をして欲しいとの意味を、
読み取ることが出来、
それは取りも直さず、
被害者(虐められっ子)に加害者(虐めっ子)を制して欲しい
と言っていることと同義だったからです。
…そんなことが可能ならば、
被害者(虐められっ子)は最初から存在していません。
それでも私は彼女の上司のため、
やんわりと笑顔を作りながら答えました。
「あぁいう人は、働いてたらいるんだよね」
そんな私の言葉は、
彼女にとって欲しかった返答ではなかったのでしょう。
「そうなんですか」
と、
少し不服気味な声で答え、
しばらくの間の後、
これ以上私と話しても、
自分の望む言葉は出てこないと感じたのか、
無言で自分の業務に戻っていきました。
そんな彼女を見つめながら、私は。
彼女が自分の正義を盾に、
上司である課長を大っぴらに非難する様は、
まるで昔の敵が多かった自分の言動を見ているようで、
この子は組織の中で生きるのは危ういな
と、感じずにはいられなかったのでした…
世界から孤立していた私の話21〜部下からパワハラ相談を受けて起こした私の行動に続きます。