(前回からの続きになります)
脳梗塞を発症した母が急きょ入院した金曜日。
病院の指示通り、
何とかその日の17時までに、
入院に必要な書類と必要な衣類を届けることが出来て、
ホッとしていた私だったのですが、
その翌日の朝には、
母が入院した病院の母の担当看護師から、
「お母様が充電式の補聴器を持ってきて欲しい、
とおっしゃっています。
土曜日の今日、持ってくるのでしたら、
面会時間が午前中のため、
それまでにお願いします」
との連絡が私の携帯に入って来ました。
母は聴力が弱いため、急きょ入院した日も補聴器を付けていたのですが、その補聴器は電池式で、母の入院に関して兄から丸投げされていた私は、病院からの連絡や入院費用の請求書の送り先を、全て自分にくるように届け出ていました。
そのため私は、
仕事で疲れ果てた重い体を引きずって、
自分のアパートから、
片道1時間20分ほどかかる実家に行き、
母の補聴器を探し回り、
またしても12時ギリギリ前に病院に駆けつけ、
母の担当看護師の方に、
母から頼まれていた補聴器と、
もう1つ、
頼まれてはいなかったけれど、
母の鏡台の前に置いてあった美容液も一緒に、
小さな袋に入れて渡しました。
私の母は近所にスーパー等の買い物施設のない、
かなり田舎に住んでいるため、
高齢で車を手放した母は、
自分で買い物に行くことは出来ず、
生活に必要な食料品や日用品は、
全て生協の、
家の玄関先まで届けてくれる、
個人宅配で購入していました。
この美容液も、
生協の宅配の袋に入っていて、
まだ未開封の状態でした。
母の補聴器を探していて、
母の鏡台の前に、
この未開封の美容液を見つけた私は、
毎月のあまり裕福ではない年金の中から、
この、
母の所持品の中では、
割と高価な美容液を購入した母の、
年齢を重ねても綺麗でありたいという気持ちと、
脳梗塞で入院していなければ、
鏡の前でこの美容液を付けて、
自分の肌のお手入れをしていたであろう母を想うと、
とても切ない気持ちになって、
母が入院期間中も、
この美容液を使うことで、
自分自身の気持ちを上げて、
元気を出すことが出来たら、
という思いで、
看護師さんに渡したのでした。
それ以降の週末も。
私は病院から何も連絡が無くても、
毎週土曜日は母の家に1泊して、
病院からの急な連絡に備えるとともに、
母の家が傷まないように空気の入れ替えを行ない。
合わせて、
母が気にするであろう神棚のお水やお酒を入れ替え。

仏壇にお供えするお花も、
締め切った家の暑さで、
私が訪れる1週間後には痛んでしまっていたため、
毎回、替えていたのでした。

そして、
母が急きょ入院してしまっていたため、
部屋に放置されていたり、
洗濯機に入ったままになっていた、
汚れた衣服を片付けようと、
母の家の洗濯機を回した際、
全く水が出て来ず、
5時間経っても洗濯が終わらないという状況に遭遇し。

これは、
お母さんは大変だっただろうと思い、
退院後にお母さんが苦労しなくていいように、
何とか洗濯機の水が出てこない原因を究明し。
全ては母が退院して家に帰ってきた時に、
快適に過ごして欲しいという思いから。
母が入院した時は、
まだ家の中は寒かったのですが、
母の入院から数週間が過ぎて、
家の中が暖かくなっても、
母の退院の目処は立たなかったため、
居間に出ていたコタツとカーペットも片付けて、
クリーニングに出すことにしました。
ただ、クリーニングに出す時に、
母の家のコタツ布団が破れて、
綿が出ていたことに気付いたため、
カーペットのみクリーニングに出して、
破れたコタツ布団は勝手に処分し、
代わりに新しいコタツ布団を、
買って贈ることにしました。
(75×105cmと大きいコタツだったため、片付けるのが本当に大変でした)
兄は母の入院の連絡をしても、
「わかりました。
何かあれば連絡ください。」
とショートメールを送ってきたきりで、
私の娘からせっつかれなければ、
母の病状を確認することも、
私から言われなければ、
母の入院費用を負担する考えも無かったため、
こんな人に頼るもんか
と心に決めた私は、
母の入院費用から病院で使用する衣類の洗濯料、
母が病院で見るテレビの使用料まで、
全部自分1人で負担するために、
母が入院した次の日から、
食費を削る等の節約を重ね、
母の入院に係る一切の費用を捻出することにしました。
辛くはありませんでした。
お母さんの役に立てることが嬉しくて頑張りました。
兄が母の入院に対して全く何も動かない分、
母を支えられるのは私しかいないのだ
という自負が、
私に力を与えてくれていました。
母の家のメンテナンスにしても。
夏に向けてスクスク伸びてくる、
玄関前の庭に生えている草を、
毎週取るといった肉体労働を行なっていましたが、
職場で毎日強いられている長時間労働で、
フラフラした身体でも、
母の役に立っているのだと思うと、
楽しくさえありました。

前庭の草取りは毎週行なっていたのですが、
裏庭の草まで気が回らずにいたところ、
数週間後に裏庭の存在を思い出した時には、
足の踏み場も無いほど、
草に覆われていました。

父が亡くなっている今。
母の家族といえば私と兄の2人になるけれど。
兄が何もしないため、
母に尽くしているのは私だけ。
幼い頃に、
母のそばにいたくて、
母を喜ばせたくて、
やっていた母のお手伝いでは、
感謝されることは無かったけれど。
母自身も歳を取って、
自分で出来なくてなってしまったことを、
私が手伝ったのなら、
さすがにきっと私に感謝してくれて、
私のことを見てくれるはず。
幼い頃から母の愛を求めていた私にとって、
この状況は、
私が母に愛されるチャンス
であり、
私が1人で母の面倒を見ているということは、
私にとって、
私が母を独占している
ということでした。
小学生の頃から、母親に、
として扱われていた私にとっては、
自分の生活を蔑ろにしてでも、
母の役に立つことが、
母と家族として繋がっていることが感じられて、
嬉しかったのです。
けれど。
そんな私の母への思いは、
私の単なる一方的な思い込みだということを。
この後、母から、
嫌という程、突きつけられることになったのでした。
世界から孤立していた私の話4〜母の入院を知った娘の言動に続きます。