社会との関わり方

発達障害に対する世間の目

厳しい視線

発達障害に対する世間の目

先週の金曜日に職場で。

以前パート勤務の方を、
"アペちゃん"と揶揄していた部下が、

「あの息子、発達障害だそうですよ」

と言い出しました。

なんのことかと思っていたら、
元農林水産省の事務次官が、
息子を殺害した事件のことでした。

私は、その部下の言葉に、
心中穏やかではありませんでした。

なぜなら、その部下の言葉には、

「息子が発達障害だったからこんな事件が起きた」

と言いだけなニュアンスが、
含まれていたからでした。

私は職場で話してはいませんが、
自分の生きづらさの理由を知りたくて、
発達障害の検査を受け、

「ASD(自閉スペクトラム症)の可能性が高い」

という結果をいただいています。

私はこの結果を、
精神科の医師から聞かされた時に、
自分の生きづらさに、
ちゃんと原因があったことに安堵し、
原因が分かったら、
次は対処法を学べば良いとばかりに、
自分が苦手な、
人との、
コミュニケーションスキルを上げるべく、
アサーション・トレーニングを受け、
実生活で活用しています。

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私にとって発達障害は、
忌むべきものでも揶揄するものでもなく、

"対応すべきもの"

という認識だったのですが、
私の職場の定型発達者達にとっては、
どうも違っていたようでした。

私は発達障害者は、
リアルでは自分自身と、
診断は受けていませんが自分の父と、
同じく診断は受けていないけれど、
私から発達障害の話を聞いて、
当てはまると言っている、
自分の娘しか知りません。
(職場に発達障害であろうと思われる人はいます)

他の発達障害者は、
このブログで繋がってくれている方、
くらいしか知りません。

だから、偏った知識ではあるけれど。

皆んな、生きづらさをかかえながら、
この社会に合わせて、
生きようと頑張っている人しか知りません。

だから、私はつい忘れてしまうのです。

発達障害者が犯罪を起こしやすいという、
偏見で見られるもの

だということを。

この部下の発言は、
私と社会との発達障害に対する認識の違いを、
教えてくれる結果となりました。

けれど、
私はこのような発言に会うたびに、
いつも思い出す言葉があります。

私を診察してくださった、
精神科医に言われた言葉。

「困っていなければ障害ではない」

社会で生きていくのに困らなければ、
発達障害の特性は"個性"となり、
生きていくのに困った時に、
"障害"として認識されるのです。

だから、
発達障害の特性を持っていても、
養育をキチンと受けることで、
社会での対応の仕方がわかっていたり、
周囲の理解に恵まれていて、
特性を個性として活かせる環境にいたならば、
発達障害者が事件を起こすようなことは、
無いのだと思います。

発達障害者が事件の当事者となる時、
それが加害者でも被害者でも、
そこに存在するのは、
発達障害の特性から、
社会との間に軋轢が生まれ発生する、
人格障害などの2次障害の影響が、
大きいのではないかと思うのです。

幸いと言ってはおかしいですが、
幼少期から、
マルトリートメントを受けて育った私は、
どんなに社会で生きづらくても、
実家に引きこもるという選択肢は、
ありませんでした。

おかげで自分で失敗しながら創意工夫し、
社会で生きていく術を身につけました。

もし、そんな家庭でなかったら。

家の中での居心地が良かったのなら。

社会に馴染めない自分を憐みながら、
社会に対する不満を抱えて、
家に引きこもっていたのではないか、
と思います。

その点では私は自分の生まれた家庭に、
今は感謝しています。

そして、こんな発言を聞くたびに、
私は新たに思うのです。

発達障害の特性が個性と認められる、
そんな社会になるように、
自分に出来ることをしていこう。

って。

本当に小さなことではあるけれど。

私が社会で生きてきた経験を、
ブログに書いていくことで、
こんな発達障害者もいるのだと、
知ってもらったり、
社会で活動する発達障害の方の励みに、
少しでもしてもらえたら、
自分が理想とする社会に本当に僅かでも、
近づくことが出来るのではないかと、
そんな夢を持って、
このブログを書いています。

私のASDの特性に皆んなが優しい理由

ここ最近、
私が職場の人達に言われた言葉。

  • 「係長(私のこと)、嘘がつけないですもんね」
  • 「言われたことを、すぐ信じますよね」
  • 「心配性ですよね」

これらの言葉は、
私のASD(自閉スペクトラム症)の特性が、
職場でも発揮されていることを、
現している言葉だと思うのですが。

これらの言葉を言われた時、
私はこの自分の特性を、
悪く言われたのではなく、
むしろ好意的に言われたと感じました。

なぜなら。

この言葉を言った時に相手の方は、
私に笑顔を向けていたからでした。

例えば"嘘がつけない"と言われた場面では、
他部署の方がうちの部署にやってきて、
ある質問を私にしてこられて。

けれどまだ、本当のことを、
相手に伝えられない状況だったため、
嘘のつけない私は、
ただ黙って相手の言葉を聞いていたのですが。

その時の私の目は、
かなりウロウロと泳いでしまっていたらしく。

何とか無言で乗り切った私に対して、

「係長、マスクをしてなかったらバレてましたよ」

この時、風邪をひいていて私の顔の下半分はマスクで隠れてました。

と、部下から言われてしまい。

その部下の言葉に、
同じ部署の皆んなは大笑いしていました。
(皆んな、私の目の動きに気付いていたようです)

そして"言われたことを、すぐ信じる"
と言われた場面では、
その言葉を言った方が、
自分の言うことを聞かない相手に対して、

「あの素直さを見習いなさい」

と言っていて、
"心配性ですよね"と言われた場面では、
その状況が危ないと思い、
注意喚起した私に対して、
安心させるように言われた言葉でした。

どの言葉も私に対して、
とても好意的だったのだけど。

私はこの自分の、
同じ特性を悪し様に言われたことも、
過去に何度もありました。

そして、その状況の違いを、
自分なりに分析してみると。

やはり、

「相手が自分に対して好意を持っているかどうか」

が、
一番大きな違いなのだと思いました。

以前の私は、
ASDの特性から、
職場では黙々と仕事をこなし、

「職場では仕事が出来ることが一番大事」

と、
ただひたすら仕事にだけ取り組み、
周囲の人間と、
必要以上に関わってきませんでした。

人と関わることは苦手でもあり、
苦手なことに、
敢えて時間と労力を割く意味を、
見出していなかったからでした。

ASDの特性を抱えながら、
会社という組織で生きるだけで、
精いっぱいだったのかもしれません。

平社員で若かった頃は、
そんな自分でも、
何とかやってこれたのですが、
年齢が上がり管理職に就くようになって、
それではやっていけなくなりました。

人間関係が出来ていない私に対して、
協力的に動いてくれる部下は、
ほとんどいなかったのです。

それから私は、

「仕事を行うには良好な人間関係が必要」

だと自分の意識を改めて、
人に対して、
気配りや思い遣りをするようになって、
それに合わせて周囲の人達も、
見方によっては面倒と捉えられる私の特性を、
好意的に受け取ってくれるように、
なったのでした。

これは人に対して行ったことは、
本当に自分に返ってくるのだと、
私に実感させてくれた出来事でした。

私は会社で人に対して親切に接する時に、
いつも思い出す話があります。

それはアパートで騒音の苦情を言われて、
困っている人の悩み相談への、
回答だったのですが。

「人間関係が出来ていない相手が起こす騒音はうるさく聞こえるので、
相手と仲良くなりましょう」

というものでした。

ASDの特性も、
きっとこの騒音と同じことだと思うのです。

自分の特性を受け入れて欲しいと思ったら、
相手と人間関係を築くこと。

その築く人間関係は、
相手ととても仲良くなるとかいう、
そんなにハードルの高いものではなくて。

相手に対して思い遣りを持って接すること。

それくらいのことで良いのだと思います。

今の職場の人達と、
円滑な人間関係を築くために、
私が心がけていることはそれ位で、
それで私のASDの特性は、
ちゃんと好意的にうけいれられることが、
出来ているのだから。

自分の欲しいものを、まず相手に与える。

これはきっと、
ASDでも定型発達者でも、
同じことなのだと思います。