私の成育歴の記事一覧は、愛着障害に関する成育歴にあります。
前回の記事はこちら→マルトリートメントと私38.死ぬという希望
※自分の記憶に基づいて書いているため、事実と違っている可能性があります。
私達家族が住んでいた借家は、
かなり傷んでいて家自体が傾いており、
襖の敷居の溝にビー玉を置くと、
コロコロと転がるほどだったため、
幼かった私と兄はよく、
そこでビー玉を転がして遊んでいました。
兄が小学校5年生、
私が小学校4年生に上がる頃になると、
家の傾きはますます激しくなり、
大工さんに診てもらったところ、
白蟻に柱がほとんど食べられてしまっていて、
修復は困難だということが分かりました。
そのような事情から、
引っ越しを、
しなければならなくなったのですが、
父と母は相談の上、
今度は借家を借りるのではなく、
家を建てよう、ということになりました。
そしてその相談の中で、
男と女の兄妹だから、
そろそろ私達にも、
1人部屋を持たせた方がいいだろう、
という話がまとまりました。
家を建てるとなると、
今の田舎の建築会社の給料では、
とてもやっていけないため、
父は大阪の会社に、
長距離トラックの運転手として、
出稼ぎに行くことになりました。
それは私にとって、
青天の霹靂ともいえる、
自分の運命が拓けた瞬間でした。
父が遠くに離れるということは、
父からいやらしい目で見られることも、
いやらしい行為をさせられることも、
無くなる、
ということでした。
車の運転が好きな父にとっても、
今の建築現場で働く仕事よりも、
長距離トラックの運転手の方が、
やりたい仕事のようでした。
そして。
きっと家族の目を盗んで、
小学生の娘で性的興奮を覚えるよりも、
大阪で、
大人の女性に相手をしてもらった方が、
父も良かったのでしょう。
父はあいも変わらず、
父から言われた言葉や、
その後にされた行為のせいで、
父の前ですっかり、
感情が表現できなくなった私のことを、
馬鹿にする程度には、
私のことを不気味だと嫌っていたため、
他に相手がいるのであれば、
父は決して私で性的興奮を得たい訳では、
なかったのです。
私はきっと父にとって、
自分の自由に出来る、
道具の1つだったのでしょう。
けれど、
それは私にとって幸いなことでした。
父に執着されて、
あのような行為を続けられていたら、
私はきっと気が狂っていたでしょう。
そして、父親に可愛がられていた、
兄にとっても父は。
大人になって、
「あの時、親父が家から出て行かなかったら、
俺は真っ当に育つことが出来なかった」
と言わしめるほどに、
兄の精神に多大な害を与えていたようでした。
私達家族は、
父の出稼ぎという出来事によって、
何とか家族崩壊を、
免れることが出来たのでした。