社会との関わり方

「働け」「泣くな」と言ってきた相手に対するASDうつ病患者の心の動き

30年間、週5日、ほぼ毎日、
1日12時間以上働き続けた会社を、
職場で受けたパワハラが原因で発症したうつ病により、
今年の3月末で退職した私。

現在は病気療養に専念しており、
働いていないのですが。

そんな私の事情を、
今現在、
私と交流のある人の中で知っているのは、
私の娘と、
師事している絵画教室の先生御一家くらいになります。

周囲の人達に自分の病気のことを話していないのは、
人間関係を構築するのが下手なASDの私に、
そんなに深い、
プライベートな話をする相手がいないことと。

付き合いの浅い相手に対して、
私がそんなに重いカミングアウトをしだしたら、
相手も困るだろうという気配りに加え、
精神疾患があるという色眼鏡で見られることで、
私が不利益を被ることを、
避けるための意味合いもあります。
(同じ理由で発達障害のことも話していません)

そして、弱っている時に人に付け入られたり
自分の弱味を握られることで、
実の父親から脅迫を受けお金をせびられるという、
辛酸を嘗める経験もした私は、
人に会う時に弱っている自分を見せることを、
良しとしません。

そのため。

私の元気な姿しか見ていない、
浅い付き合いの人から。

元気なのに働いていない人

と思われ、
場合によっては相手から蔑まれることも自業自得、
なんなら自分の願い通りに、
自分のことを相手が見てくれていると、
ほくそ笑む気持ちになることもあるのですが。

それでも。

受け入れられない状況、というのも、
時々、発生します。

例えば。

それは、少し前のことになるのですが。

今年の夏に知り合った画家さんから、
絵の個展を開催するからと案内状を渡されて、
個展会場を訪れた時のこと。

その画家さんは、
知り合った時から親切にして下さった方だったため、
知り合いの方の個展を観に行くのが、
初めてだった私は、
失礼があったらいけないと、
事前に絵画教室の先生に、
個展を観に行く時のマナーや、
差し入れ等はどのようなものがいいか相談した上で、
その方の個展会場を訪れました。

体調に不安があり、人混みが苦手な私は、
敢えて平日の、
人が少ないであろう時間帯に訪れたのですが、
それは、一般的には、
多くの人が働いているであろう日時でもありました。

そんな日時に個展会場を訪れた私を、
不思議に思ったのでしょう、
画家さんは個展会場で私の姿を見つけると、

「今日は仕事は休みなの?」

と、
世間話のような言い方で聞いてきました。

その言い方が、
普通の雑談のような言い方だったため、
だから私も、

「いえ、私、働いてないんです」

と、何の気負いもなくサラッと返したのですが。

「働け」

と、笑顔ながらも、
突然強い言葉を返されて、私は驚きました。

その断罪するような物言いに、
私が健康なのに働いていないと咎める含みを感じて、
心がざわめき立ったのですが、
私は辛うじて堪えました。

この人は私が今日の個展に来るために、
うつ病の症状で身体が動かなくならないよう、
1日前から体調を整えていたことを知らないし、
私は自分の病気を伝えていないのだから、
この人が知らないのは当たり前なのだから、と。

だから、私はすぐ、
この人が納得するだろう言い方で、
その場を誤魔化しました。

「3月までは働いてたんですけど……」

まるで、
現在求職中であるかのように濁した私の言葉に、
その方は何かを納得したように、

「あぁ、そうなの」

と返事をすると、

「自由に観ていってね」

と言って私の傍を離れました。

私はしばらく、
その方の言葉に動揺した、
自分の気持ちを落ち着けながら、
個展会場に飾ってある絵を観てまわりました。

私は元々、絵を観ていると心が落ち着く性分であり、
自分の心が弱っている時に、
ギャラリーなどに行って、
自分の心を落ち着けることもあったため、
しばらくすると、
ざわめき立っていた心もだんだん凪いできて、
ゆっくりと絵を鑑賞する心の余裕が出てきました。

そして。

その、飾られている絵の中に、
私の心の琴線に触れる絵が1枚あり、
その絵に触発されるように、
私の心の中に、
過去に言葉に出来なかった、
自分の哀しい気持ちが湧き出てきて、
私は自分の目が潤んでくるのを感じました。

私がその絵の前から動けずに立ち止まっていると、
他にお客様がいなかったからか、
また、個展を開催している画家さんが、
私の傍に来られました。

その方は、巨匠と呼ばれるある画家が好きで、
その画家の絵をイメージしながら、
この絵を描いたといい、
私もその画家が好きだったため、

「あの画家、いいですよね!!」

と、私が絵から、
その方の顔に視線を移して言うと、
その方は、
私の目が潤んでいるのに気付いたのか、
この時もその方は笑顔をつくりながら、

「泣くな」

と私に向かって言われました。

私はこの時、
自分の哀しい気持ちにフォーカスしていたため、
かなりセンシティブになっており、
その方の命令口調に、
酷い不快さを感じながらも、
穏便にその場をやり過ごすため、
30年の社会人生活で培った対人スキルを駆使して、
相手に対して、
どうとでも取れる笑みを浮かべて返しました。

その方に対して自分の心のシャッターが、

ガシャン

と音を立てて閉まったのを感じながら。

私は角が立たないように暫くその場に留まり、
頃合いをみて、
その方に帰る挨拶をしました。

その方は帰る私に向かって、

「来てくれてありがとう」

と笑顔で感謝の言葉を伝えてくれたし、
元々、心根の良い姐御肌な人だと知っていたので、
私に向かって言った、

「働け」

という言葉にも、

「泣くな」

という言葉にも悪意が無かったのは分かっていました。

でも私は、
この2つの言葉を受け流すことが出来ませんでした。

なぜなら私は、
その方が私に向かって言った「働け」という言葉に、

自分の価値観が正しいのだという驕り

と、
同じく私に向かって禁止してきた「泣くな」という言葉に、

人の感情の発露を止める発言を自分に許す傲慢さ

を感じたからでした。

人によっては考え過ぎだと思われるかもしれません。

これはASDの、
言葉への拘りだと思われるかもしれません。

でも、この言葉の根本に、
私はゾッとするのです。

なぜなら、
この2つの言葉はどちらも。

私に命令する言葉

だから。

そして、私が幼い頃に、
原家族から言われていた言葉だから。

原家族に自分を愛して欲しくて、
原家族から言われたこれらの言葉に傷つきながらも、
原家族に尽くした私を待っていたのは、
自分を大切にしてくれない原家族と離れるという結末。

それらの経験から。

私は悪気なく自分に命令してくる人達が、
表面的にはどうであれ、
心の奥深い部分で私を軽んじていることを知っていました。

あぁ、この人も、
私のことを大切にはしてくれないのだ

そう感じた私は、
夏に知り合ってから大好きだったこの画家さんを、
自分の心の中の、
大切な人リストから外しました。

自分を大切にしてくれない人を、
私も大切にしたりしない

これはアラフィフから、
自分の心に素直に生きると決めた私が、
自分に課したルール。

自分に命令してくる人に、
軽んじられて哀しい思いをすることが無いように。

もう、尽くすだけ尽くして、
顧みられない哀しみを、
繰り返さなくていいように。

私は人に対する好意が極端なのも、
ASDの特性にあったよな、
と思いながら、
夏に知り合ったこの画家さんへの好意を、
心の中でそっと手放したのでした……