私の成育歴

マルトリートメントと私26.記憶の奥底の恩人

用務員さんと子供
私がなぜ、自分の生育歴を振り返るようになったのかは、私が自分の成育歴を振り返ることにした理由をご覧ください。
私の成育歴の記事一覧は、愛着障害に関する成育歴にあります。

※自分の記憶に基づいて書いているため、事実と違っている可能性があります。

自分の唯一の味方だと思っていた母親から、
理解してもらえないと感じた私には、
家庭の中にも、学校の中にも、
自分の居場所はありませんでした。

家庭でも実の兄から、

「お前さえ居なければうちの家族は上手くいく」

と言われていたし、
この頃の私は学校に行っても、
教室に入ることが出来ない子供でしたが、
私が教室にいなくても、
担任の先生も同級生達も、
誰も私を探そうとはしませんでした。

存在していることが、
毎日辛くて苦しくて、
誰かに助けて欲しかったのですが、
誰に助けを求めたらいいか、
分かりませんでした。

私は授業時間中、
学校の裏にあった、
トイレの建物の陰に隠れて泣いていました。

その場所は、
授業をしている教室から、
ギリギリ見えるか見えないかの位置で、
私は誰かに自分を見つけてもらうことを、
期待していたのでした。

自分の存在を見つけて、
その場所から連れ出してもらうことで、
私は誰かに存在していいと、
言って欲しかったのだと思います。

これは何の力もない、
子供だった私が出していた、
消極的なSOSでしたが、
それまでの素行があまりにも悪すぎた私は、
もう誰からも相手にしてはもらえず、
私を見つけてくれる人はいませんでした。

そんな中で唯一、
私に手を差し伸べてくれた存在がいました。

それは、昔の小学校には必ずいた、
用務員のおじいちゃんでした。

授業時間中に、
学校の清掃をして回っていた、
用務員のおじいちゃんは、
トイレの陰で泣いている私に気付いて、

「寒かったでしょう、こっちにおいで」

と言ってくれて、
私を用務員室に連れて行ってくれました。

用務員さんと子供
用務員室は、
職員室や教室のある鉄骨の大きな建物から、
少し離れた位置にある、
木造の掘立小屋みたいな建物で、
四畳半ほどの広さながら、
畳が敷かれいて、
その真ん中にはコタツが置いてありました。

用務員のおじいちゃんは、
寒い中、ずっと立って泣いていたために、
体が冷えきっていた私を、
コタツの中に入れてくれました。

置いてあった蜜柑を私に勧めてくれると、

「どうしたの?」

という、
その時の私が一番言って欲しかった言葉を、
私に言ってくれました。

その言葉が嬉しくて、
私はまた泣いてしまい、
上手く自分の気持ちを、
言葉にすることは出来ませんでしたが、
用務員のおじいちゃんは、
泣きながら話す、
私の聴き取り辛かったであろう言葉を、
一生懸命に聞いてくれました。

用務員のおじいちゃんは、
母親や先生のような他の大人のように、
決して私に対して、

「授業に出なさい」

といった、
高圧的な言葉を言いませんでした。

ただただ優しく、
私の話を聞いてくれて、
私の気が済むまで、
用務員室に居させてくれました。

それが、私には心の救いになりました。

家庭にも学校にも無かった、
私が存在していい唯一の場所を、
用務員のおじいちゃんが、
与えてくれたのでした。

私は拒否されるのが怖かったため、
自分から用務員室に行くことは、
出来ませんでしたが、
用務員のおじいちゃんは、
授業に出ていない私を見つけると、
私に声をかけて、
用務員室に連れて行ってくれたので、
私は用務員のおじいちゃんが、
見つけてくれるのを、
心待ちにするようになりました。

それは今でいう、
保健室登校のようなものだったと思います。

用務員のおじいちゃんは、
自分の仕事でも無いのに、
その優しさから、
私に居場所を作ってくれたのでした。

この頃の私は、
用務員のおじいちゃんがいたから、
生きていられたのだと思います。

そんな大切な、
用務員のおじいちゃんとの記憶なのですが、
私の辛い過去の記憶に、
あまりにも絡んでいるために、
大人になるまでずっと、
記憶の奥底に仕舞ったままに、
なっていました。

私の唯一の居場所であった用務員室で、
用務員のおじいちゃんと過ごしたのは、
そんなに多い回数では、
なかったように思います。

それでもあの頃の私が唯一心を開いた、
恩人とも呼ぶべき人でした。

小学校1年生の時に、とても一生懸命に私に関わってくれた担任の先生は、
転勤か定年でいなくなってしまっていました。

あの頃の私が必死に求めていたのは、
自分に教育や知識を与えてくれる人ではなく、
ただ自分の存在を受け入れてくれる人、
だったのでした…

マルトリートメントと私27.ポケットの中のお守りに続きます。