私の成育歴

マルトリートメントと私13.父と母の喧嘩の原因

子供の目の前で起こる夫婦喧嘩
私がなぜ、自分の生育歴を振り返るようになったのかは、私が自分の成育歴を振り返ることにした理由をご覧ください。
私の成育歴の記事一覧は、愛着障害に関する成育歴にあります。

※自分の記憶に基づいて書いているため、事実と違っている可能性があります。

自由に振舞えない保育園児

粘土遊びする幼稚園児

私は5歳くらいの時にはもう、
父親が怖くて、
人の顔色を伺う子供になっていました。

人のいないところでは、
伸び伸びと振る舞うことが出来るのですが、
人のいる場所だと、
どのように振舞っていいか分からなくて、
動けない子供になっていたのです。

そんな私の状況を、
端的に表したエピソードがあります。

私はほんの少し間だけ、
保育園に通っていました。

保育園に通っていた頃の記憶は、辛い経験と結びついているため、
自分の小・中学校の同級生達に対しては、
私はずっと「保育園に通っていない」と嘘をつき続けていました。

その時間は、粘土の時間でした。

粘土は1人で一つずつ、
自分のものを持っていて、
自分の自由に使っていいものでした。
ですが、
人の顔色を伺う保育園児の私は、
自由にしていいと言われると、
どのように振舞っていいか分からなくなり、
自分の粘土を使うことを遠慮してしまい、
端っこの方を少し、
使っているかどうか分からない程度に、
千切るくらいの遊びしか出来ませんでした。

きちんと指示されていないことをして、
怒られたらどうしようと思う気持ちが、
子供らしく自由に振る舞うことを、
自分に禁じていたのです。

だから、
皆んなが自由にワイワイと、
粘土で遊んでいる中で、
私はほんの少しの粘土を、
こねているだけでした。

そんな私に、
ある1人の子供が気づいて、

「何でそれくらいしか使わないの?」

と声をかけてきました。

「だって、使っていいか分からないから…」

自信なさげに答える私の言葉は、
多分、
天真爛漫に育ってきたその子には、
理解不能だったのだと思います。

「使っていいよ、使おうよ」

その子が粘土の真ん中から使わせようとしたため、
私はどうしていいか分からなくなりました。

それでも、他の子供達のように、
楽しく粘土で遊びたい気持ちがあった私は、
思い切って、
粘土ナイフで粘土の真ん中に、
切れ目を入れました。

すると…

真ん中から切った粘土から、
油が流れ出してきました。

慌てて先生のところに持っていくと、

「あぁ、半年も使ってなかったから、油が溜まっちゃったのね」

と言われました。
(この時に使っていた粘土は油粘土というものでした)

先生からは、

「今まで何で使わなかったの?」

と言われましたが、
幼い私には、
自分が父親に怒鳴られることに日々怯えていて、
人前で自由に行動することが出来なくなっている、
ということが、
分かっていませんでした。

そんな私は、
保育園の先生には単に、
大人しい子供に見えたようで、
残念ながら、
虐待にあっている子供だとは、
気付いてもらえませんでした…

父と母の喧嘩の原因

家庭の中で声が出なくなる子供

涙を流す女の子
私が自分の気持ちを、
口に出来ない状態になるのは、
保育園よりも、
自分の家での方が顕著でした。

母に気持ちを伝えることも出来ましたが、
家に父がいて、機嫌が悪い時には、
ほぼ身動きが出来ず、
喉が腫れたように詰まった感じがして、
声を出すことさえ出来ませんでした。
(場面緘黙症だったということを、大人になってから知りました)

場面緘黙症とは、普段は話すことが出来るのに、ある特定の場面では話すことが出来なくなる精神に起因する障害の一種です。
詳しく知りたい方はWikipediaの場面緘黙症をご覧ください。

私が機嫌の悪い父親の前で、
唯一出来る自己表現は、
ただ涙を流すことだけでした。

身動きすることも、
声を発することもない幼児。

父にとっては、
そんな私が目障りだったのかもしれないし、
生まれた時に

「女の子なら要らない」

と言われた子供だから、
可愛がろうという気持ちが、
そもそも無かったのかもしれません。

父から食事を取り上げられるのは私でしたが、
家族全員で行動する時以外で、
父が遊びに連れていこうとするのは兄だけでした。

私は父が怖かったのですが、
それでも幼い子供にとってやはり、
父親に置いていかれるのは寂しいものでした。

いつも寂しい気持ちで、
2人を見送っていた私を、
気遣ってくれたのは母だけでした。

母は兄と2人で出かけようとする父によく、

「じゅんも連れていってあげて」

とお願いしてくれていました。

父にとっては女の子は邪魔であり、
不愉快なお願いだったため、
父と母はよく言い合いになっていました。

私が食事を取り上げられた時も、
何とか父から食事を取り戻そうとして、
怒鳴って暴れる父に、
立ち向かってくれていたのは母でした。

私はいつも母が自分を気遣ってくれて、
庇ってくれることが、
とても嬉しかったのですが、
そのために激しくなっていく、
父と母の喧嘩が怖くて、
コタツがひっくり返されて、
食事が床に落ちて食べられなくなって、
お茶碗やコップが叩きつけられて割れて、
そんな中にいて私はやっぱり、
ただ泣いているだけしか出来ませんでした。

だから、食事を取り上げられる時も、
遊びに連れていってもらおうとする時も、
いつも父と母は、
こんな風に喧嘩していました。

母が私の気持ちを代弁してくれて、

「今、じゅんはこんな風に思っているのよ!」

と父に言ったら、

「黙って泣いてるだけで、そんなこと言ってないじゃないか!!」

と父が母に怒鳴り返して、
私に激しい剣幕で、

「俺の言ってる通りだろう!!」

と自分に都合の良い意見に、
無理矢理私を同意させようとして。

本当は母が代弁してくれている気持ちが、
私の真実の気持ちなのだけど、
私は恐怖から父親に逆らう発言が出来なくて、
でも、
父親の意見に同意する態度を示してしまったら、
唯一私に差し出されている母からの救いの手が、
もう差し出されなくなってしまうかもしれないから、
怖くてもそれだけは出来なくて。

そうして身が竦んだ私は、
ただただ泣いて自分の気持ちを表現することしか、
やっぱり出来ませんでした。

幼い私が兄に言われた言葉は「お前さえ居なければ」

子供の目の前で起こる夫婦喧嘩

父と母の喧嘩の焦点は突き詰めるといつも、

「じゅんが今、どう思っているか」

を言い合う、代理戦争のような形になっていたため、
兄からはこんな風に言われていました。

「お前が自分で自分の気持ちを言えば、
お父さんもお母さんも、
こんな喧嘩しなくて済むんだ!!」

本当にその通りです、正論です。

ただ恐怖で、
私の喉が本当に腫れたようになって、
父親の前では声を出すことが出来なくなる、
ということが、
1歳上の兄には理解出来ないようでした。

兄からいつも、
父と母の喧嘩の原因が私だったため、

「お前さえ居なければうちの家族は上手くいくのに!!」

と言われた言葉も、
その通りだと私はすんなり受け入れました。

やはり子供だった兄が、
こんな家庭環境の原因(私)を、
排除したくなる気持ちは、
私にも理解出来ました。

そして私は。

この家から出ていく用意を、
着々と進めていくことにしたのでした。

マルトリートメントと私14.家を出る準備に続きます。