私の成育歴の記事一覧は、愛着障害に関する成育歴にあります。
前回の記事はこちら→マルトリートメントと私42."あの子と遊んではいけません"
※自分の記憶に基づいて書いているため、事実と違っている可能性があります。
父親、母親、先生といった、
大人達からだけでなく、
友人からも自分を否定された、
と感じた私は、
家でも学校でも、
とても孤独でした。
「たった1人でいいから自分を愛して欲しい」
という思いは、
いつも私の心の中にありましたが、
私は渇望とも呼べるこの思いを、
どうしたら満たせるのか、
全く分かりませんでした。
家を建てるために父が出稼ぎに行き、
私は父の怒りを避けるために、
物置に引きこもるといった行動を、
取らなくても良くなったのですが、
私は自分の、
ASD(自閉スペクトラム症)の性質と、
父との関係性の悪さから、
この頃には母とも心の確執があり、
幼い頃は庇うこともあった兄とも、
と言われる程に、
仲が悪くなっていたため、
今さら暖かな家族の繋がりを、
求める相手は、
いなくなっていました。
さらに、
父が出稼ぎに出て建ててくれた、
新しい家に引っ越した後は、
兄と私に一部屋ずつが、
与えられていたのですが、
長男だからという理由で、
部屋にテレビと、
その当時大流行していたファミコンを、
買い与えられていた兄は、
食事の時以外は主に自分の部屋で、
ゲームをして過ごしており、
兄が居間で、
私や母と一緒に過ごすことは、
ほとんどありませんでした。
兄の部屋にだけ、
テレビがあるという、
格差に納得出来ず、
私が母親に対して文句を言うと、
母親からは、
こんな言葉を返されました。
「お兄ちゃんはいずれこの家を継いでいく人間だ(から、特別待遇で当たり前)」
「お前はいずれ(結婚して)この家を出ていく人間なんだから(お兄ちゃんと同じでなくて当然)」
私は鹿児島の、
かなり田舎で育ったため、
父親だけでなく親戚からも、
長男が特別扱いされることには、
慣れていましたが、
母親からも、
このように思われているとは、
知りませんでした。
その後も母親は、ことあるごとに、
「お前はいずれ出ていく人間なんだから」
という言い方をしては、
私と兄の扱いの格差を、
当たり前だと納得させようとし、
兄には何もさせず、
私にだけ家の用事を言いつけました。
私は元々、母親が大好きで、
幼い頃には自分から、
喜んでお手伝いをする子供でした。
けれど、
そのお手伝いをしなくなったのは、
母親が私がお手伝いをするのを、
当たり前と捉えて、
私を独りぼっちにし、
文句ばかり言うように、
なったからでした。
私がいくら、
頑張ってお手伝いをしても、
それは当たり前のことで、
父や母が可愛がるのは、
長男の兄でした。
そんな環境の中で、
家事の手伝いなど、
喜んでやる気持ちも起きず、
しかもこの頃には私は、
肋骨の裏がつって、
息が出来なくなるといった、
原因不明の痛みに、
襲われるようになっていて、
さらに小学校で続けていた、
普通の子を演じるという行為は、
すーちゃんが離れていった後も、
行なっており、
私の心身の疲労はピークで、
家では寝てばかりいる、
子供になっていました。
そんな私の様子が、
母には怠け者の娘と、
映っていたのでしょう。
母が私に言いつけたことを、
させようとして繰り返し使った、
「お前はいずれ出ていく人間」
という言葉は、
私の頭の中に次のような暗示として、
変換して刷り込まれました。
「お前(私)はこの家を出ていくまで間借りさせてもらっている人間」
いずれ家から出ていく女の子は、
間借りしているだけなのだから、
家族の中に居場所など、
最初から無いのだ。
生まれた時に父から、
と言われた私の誕生を、
それでも母は、
望んでくれていたのだと、
心の中で希望を持っていた私は、
母からのこの言葉に、
自分の存在意義が、
全く分からなくなってしまいました。
「たった1人でいいから誰かに愛されたい」
私の心からのたった1つの望みは、
なんて高くて叶わない望みなのだろうと、
母の言葉に、
改めて思ったのでした。
マルトリートメントと私44.私が見つけたお母さんの代わりに続きます。