回想録

世界から孤立していた私の話1〜手放した1つの世界

ASDで愛着障害がある私は、
人付き合いが、あまり上手ではありません。

そのため、
シングルマザーで子供を育てていた時期は、
友人との交流(ママ友等を含めて)と呼べるものは、
ほぼ無く、
職場と実家と家庭、
この3つが、
私の属する世界(コミュニティ)の全てでした。

けれど、娘が私の保護を離れて結婚し、
家庭での人(娘)との交流が無くなると、
私の属する世界は、
職場と実家の2つのみになってしまい、

このままでは仕事を退職後、
寂しい老後を送ることになってしまう

と考えた私は、
所属する世界(コミュニティ)を増やすことにしました。

人付き合いが苦手な私が、
そのような考えに至った背景には、
1つのコミュニティにしか所属していなかった場合、
そこでの人間関係にトラブルが起こると、
全ての人間関係を失ってしまう恐れがあり、
人は自分を受け入れてくれる場所が無いと、
心身の健康を崩してしまうことから、
最低でも、
3つのコミュニティに所属しておいた方がいい、
という話を本で読んでいたことも、
影響していました。

そのため私は、

子供の頃に好きだった
絵を描くという、
共通の目的があるコミュニティなら、
ASDの私でも、
周囲と上手くコミュニケーションが、
取れるのではないか

と考え、
それ以来、
転勤に合わせて師事する先生は変わったものの、
週末は絵画教室に通うという生活を、
もう10年以上、
続けてきたのでした。

だから私はずっと、

職場と実家と絵画教室

という3つの世界を持つことで、
自分の居場所を確保するというリスクヘッジを、
行ってきたのですが。

2022年の年始め。

娘が母の家に帰省してくるのに合わせて、
私も母の家に宿泊した時に、
母が娘に吐いた嘘と、
その後の、
母の私への配慮の無い言動から、
自分が母親から粗末に扱われていると感じた私は、

実家を自分の所属する世界としてカウントするのを辞める

ことを決意したのでした。

そして私は、
これ以上、母に尽くすのは辞めようという思いから、
私はその年の3月、
母の誕生日に毎年かけていたお祝いの電話をしない、
といった行動を取りました。

この行動を決意するのは、
私にとって、とても勇気のいることでした。

なぜなら私が母の誕生日を祝ってあげなかったら、

誰も母の誕生日を祝ってくれる人がいない

と考えていたからでした。

私は自分が幸せになるために、
父や母から受けた、
マルトリートメント(子供に対する不適切な養育)を、
許せるようになりたくて、
自分の誕生日に、
自分を産んで育ててくれた両親に感謝の電話をする、
という行動を、
3年前まで行っていましたが、
母親からさえ覚えいてもらえない誕生日は、
本当に哀しいものでした。

だから私は、
父や母の誕生日にはかならず、

「誕生日おめでとう」

という電話を掛けていました。


(プレゼントも毎年贈っていましたが、
要らないと言われたので大分前に贈るのを辞めました)

兄が父や母の誕生日に電話1本寄越さないのは、
母から聞いて知っていたため、
父が亡くなった今、
私が母の誕生日を祝うのを辞めてしまったら、
母の誕生日に、
おめでとうと言ってくれる人が誰もいないと思うと、
とても胸が痛んだのです。

この世界に存在していることを祝福されない悲しさを、
私はよく知っているから。

でも、そんな思いに囚われるたびに。

私は頭の中で、
愛着障害を調べる中で知った、

子供の頃に親に大切にされなかった子供ほど、
大人になっても親からの愛情を求めてしまうため、
自分から親に尽くす搾取子になってしまう

という言葉を、
繰り返し思い出すようにしていました。

搾取子というのは、親に大切にされず、色々取り上げられたり、ストレスの捌け口にされる子供のことです。私の中では、大人になっても親の愛情が欲しくて、自分を大切にしてくれない親に尽くすという意味合いでも、この言葉を使っています。

本で読んだ搾取子達のエピソードは、
そのまま、
私と兄と両親の関係に当てはまっていました。

親に愛してもらえなかった私は、
40代になっても、
父の日や母の日に感謝を伝えて親の誕生日をお祝いし、
長男だからと大切にされていた兄は、
感謝をすることも、祝おうとすることもない…

何かをしないと愛されなかった私には、
何もしないということは恐怖でさえありました。

でも、私が、
そうやって父や母に尽くしていたのは、
愛されたかったからでした。

父と母に愛されることで、
自分の居場所を確保したかったのです。

でも、実際は。

私が父や母に尽くせば尽くすほど、
それは父や母の中では当たり前になり、

やることは当然で感謝の対象にはならないけれど、
やらないことは非情で文句の対象になってしまう

ということが、
起こっていたのでした。

こうやって思い返してみると。

私は人生の大半を掛けて、
一生懸命に、
両親との関係改善を図ってきたけれど。

私と両親の関係性は。

4歳の頃と変わっていないのだと気付きました。

だから、私は、
自分が尽くす相手に、
一定の決まりを作ることにしたのです。

自分を大切にしてくれる人だけ大切にする。

もう、父は亡くなったので、
実家というコミュニティにいる人間は母だけで。

幼い頃、
父から疎まれていた私を、
母は庇ってくれていたから。

母に尽くすことについて、
自分が搾取子だという意識は、
持てていなかったのだけれど。

でも、その、
"母親に庇われていた"という思い出も、
この出来事をキッカケに、
自分が母親に愛されていると思いたくて、
自分に都合のいい出来事しか見ていなかったのだ、
庇われたこともあったけれど、
本当に苦しくて辛くて死にたかった、
父親から性的虐待を受けるという行為で、
母親が最終的に怒りをぶつけたのは、
私だったのだから、
私は決して母に大切にされてはいないのだ、
と、
何度も何度も自分に言い聞かせて。

私は実家という、
私を搾取することでしか、
私の存在を認めない世界を、
自分から手放したのでした。

でも、そうやって、
一生懸命に離していった実家(母)との距離は、
2022年5月末に掛かってきた、
従姉妹からの電話により、
一挙に埋められることになってしまったのでした…

世界から孤立していた私の話2〜母の入院と兄のショートメッセージに続きます。