社会との関わり方

職場の人間関係改善に大いに役立った『クッション言葉』

お願いする女性

2週間に1回の割合で通っている、
発達障害専門カウンセリング。

そこで前回出された宿題で、

「クッション言葉を使う」

というものがありました。

クッション言葉というのは、
言い辛い事やお願い事などをいう時に、
本題の言葉の前に添えて、
相手に用件を柔らかく伝える言葉です。

  • 「すみませんが」
  • 「申し訳ないのですが」
  • 「よろしければ」

などと言った言葉が、これにあたります。

お願いする女性

カウンセラーさんからは、上記の言葉に

「お忙しいところ」

などと言った言葉を付け加えると、
なお良いと言われました。

相手への思いやりを示す

それが、
社会で円滑に生きていく為には、
必要なのだと、
カウンセラーさんから何度も言われました。

社会で円滑に生きていくためには、
相手への気配りが必要なのは、
私にもよく分ります。

自分がずっと、
発達障害グレーゾーンという
社会的弱者の立場にいたので、
思いやられる事の嬉しさは、
私も知っています。

「でも…」

と、私は思いました。

私が人間関係で揉めるのは決まって、
相手が決められたルールを、
守らない時なのです。

それなのに、自分が相手に、
下手に出なくてはいけないのは、
納得がいきませんでした。

その事をカウンセラーさんに伝えると、

「あなたが正しいと相手が思っていたとしても、
言い方によっては素直に聞けない時もあるでしょう?」

と言われて、
私は首を傾げました。

確かに言い方によって、
不快な気分になるのは分りますが、
それと自分の非を認めないこととは、
私の中では繋がっていなかったのです。

「自分が間違っている時にはちゃんと認める」

というのが、私の信念でした。

自分が間違っていると分っていてごねるのは、
時間の無駄であり、
ちっぽけなエゴを満たすだけの行為である事を
私は経験上、知っていたからです。

でも、私のこの考えも、
また少数派のようでした。

カウンセラーさんからは、

「自分の間違いを認められる人は少ない」

と言われてしまい、
私は暫く心の中で葛藤しました。

本心では

「すみません」

とも

「申し訳ない」

とも思っていない相手に、
そのような言葉を口にするのは
相手に対して誠実ではないと思ったからです。

そんな風に葛藤している私に、
カウンセラーさんはこう告げました。

「生きるのが、ラクになりますよ」

その言葉で、
私は自分の心と信念に、
折り合いをつける事を決めました。

私は、職場の人間関係で、
衰弱して何も出来ないまま、
人生を終わりたくは無かったからです。

私は自分の心の中に、

「エゴで生きる人間には上辺だけの対応でよい」

というルールを作りました。

そう思ったら、
クッション言葉に抵抗がなくなりました。

私は職場のお局部下に、
誠意をもって接しなくなったため、
彼女とぶつかる事が、
逆にあまりなくなりました

彼女の仕事が間違っていても、
指摘しなくなったからです。

でもその態度は、
依然の彼女を放っておく態度とは、
明らかな違いがありました。

私は表面上は、彼女の意見を

「なるほど、なるほど」

と聞いて、
彼女を信頼して任せる態度を、
とっていたからです。

よっぽどの間違いでない限り、
私は彼女の仕事に口を出さなくなり、
しかも間違いを見つけても、

「間違っている」

とは言わないようになりました。

「すみません、何でこうなっているのか、
教えてもらえますか?」

この言い方は、
部下の仕事が間違っているのではないか、
と思った時に、
部下に内容を確認する時に、
以前から使っていた言い方だったのですが、
彼女に対しては、
以前よりもモノを知らない感じで、

「すみませ~ん、
何でこうなってるのか教えてください~」

といった言い方に変えて、
話しかけていました。

彼女は、
こんな頼りない感じの物言いの方が、
機嫌よく、
返事を返してくれることを知りました。

以前の私は、
職場の役に立つ事で、
自己有用感を保持していた為、
とてもこんな言動は、
職場で取れませんでしたが、
今の私には、
絵画教室という心の拠り所があったため、
この職場で、
役に立たない人間だと思われても、
全然平気でした。

むしろ、
ここで仕事が出来ない人間と思われて、
自分の仕事が減らされたなら、
絵画教室にもっと打ち込めるから都合が良い、
とまで、
考えられるようになっていました。

クッション言葉を使うのは、
へりくだるのではなく、

ただ自分の居る環境を快適にさせる方便

だということ。

その事さえ理解していれば、
人と関わる上で、
かなり有用な方法であるようです。