幸せになる方法

私がアラフィフから”画家になる”という夢を追いかけることにした理由

一人娘の結婚

数年前、一人娘が結婚しました。

娘の結婚式でバージンロードを歩いたのは、
父親ではなく、
母親の私でした。


なぜなら娘は、
母子家庭で育った子供だったからでした。

結婚式場の担当者は、
結婚式当日の朝、
バージンロードを、
母親が歩くことに抵抗がある私に、

「今はそんな挙式も多いんですよ」

と笑顔で言いました。

それは、

「今の時代、
シングルマザーなど珍しくありませんよ」

と、
私を安心させてくれているようでした。

子供が一人だけの私にとって、
娘の結婚式は、
今までのの人生で経験したことのない、
失敗できない大舞台でした。

私は娘の親として、
一人で、
相手側のご両親と顔合わせをして、
一人で、
結婚式場で着物の着付けを行いました。

化粧はこれで大丈夫か、
貸衣装の留袖の柄はこれでいいか、
相談したり確認したりする相手がおらず、
社会常識の少ない私は、
かなり不安な気持ちでしたが、

「人生で多分、
1度しか体験出来ないことなのだから、
この経験を楽しもう」

そう思ったら、
何だか勇気が出てきて、
娘の結婚式を楽しむことが出来ました。

でも、
もしかしたらこの文章を読んで、
気づかれた方も、
いらっしゃるかもしれませんが、
私はこの時、

「人生で多分
1度しか体験出来ないことなのだから、
この経験を楽しもう」

って考えていたのです。

子供が一人なのに、
結婚式が多分1回って、
おかしいですよね?

実は私は娘には、
(怒られそうで)黙っていたのですが、

「もしかして、
離婚・再婚するかもしれないから、
結婚式が1度とは限らない」

などと、考えていたのです。

それは自分が、
結婚式から1年も経たずに離婚して、
シングルマザーになったことに、
起因していました。

「結婚が永遠に続くとは限らない」

そんな考えを持っていた私は、
結婚式でこんな幸せそうな2人の姿をみて、
祝福する気持ちは勿論あったのですが、

ウェディングケーキを食べる新郎新婦
頭の片隅には、

「もし娘が離婚することになっても、
家に帰ってこられるように、
しておかなくちゃ」

という意識が、
ずっとありました。

そこにはやはり、
私の離婚の原因が、
元夫の浮気や暴力にあったとしても、
それくらい、
嫁なのだから我慢すべきだという、
昔ながらの、
両親や親せきの考えに傷ついた経験が、
私にあったからでした。

だから私は、
娘が結婚してひとり暮らしになっても、
自分の仕事の都合で、
転勤になって家を借りる時に、
2LDKという世帯向けの物件を、
選んで住んでいたのでした。

ようやく肩の荷を下したシングルマザー

そんな心配性の私が、

「きっと娘は離婚などしないだろうな」

と安心したのは、
娘夫婦が一戸建てを購入し、
二人目の子供を妊娠・出産してからでした。

私は自分がシングルマザーとして、
女手一つで一人娘を育てたため、
子供が一人のうちは、
まだ離婚する可能性があると、
考えていたのです。

でもさすがに、
一戸建てを購入し、
子供を二人育てている娘夫婦の姿をみて、
心配性の私も、
ようやく安心できるようになりました。

何よりも、

二人の孫の、
元気で仲良さそうな姿が、

「この家族は大丈夫に違いない」

と、
娘の離婚を心配する私に、
安心感を与えてくれたのでした。

燃え尽き症候群に襲われたシングルマザー

娘の帰ってくる場所を、
もう、
作らなくていいのだと感じた私は、
自分を操る糸が切れたかのように、
動く気力がなくなってしまい、
仕事に行く時以外は、
ベッドの上に寝たきりで、
一日中、
スマホの画面を眺めているような生活を、
送るようになっていました。

きっと、
25年という長い間、
自分の両親に対してさえ、

「若いシングルマザーの娘だからと、
馬鹿にされてはいけない」

と、
肩ひじを張って子育てをしてきた私は、
とても疲弊していたのだと思います。

あまつさえ、
離婚後、私が22歳の時に、
娘にお父さんを作ってあげたくて、
子供がいてもいいという男性と、
お付き合いしたことがあったのですが、
自分の母親から、

「男はもういいでしょう。
子供のために生きなさい」

と言われてしまい、

私は自分が母親から、
男好きで子供に構わない、
そのような人間に見られていたのか

と、
相当なショックを受けたことがありました。

抱き合う男女

そこには自分の母親が、

自分を女としてみなしているような、
自分の母親が女になったような、

そんな見たくない、
嫌悪感がありました。

私には小学生の時に父親に体を触られ、その気持ち悪さに号泣した時に、母親から私が怒られ、見放された経験があります。
このことを発達障害専門カウンセラーに話した時、「その時の母親は女として嫉妬したのではないか」と言われましたが、
私には母が女として子供に嫉妬する気持ちも、実父から性的虐待を受けている私に嫉妬するという考えも、理解できませんでした。
父親から卑猥な言葉や行動をとられていた私は、今でも自分の性が女であることが気持ち悪く、おぞましいものだと感じることがあります。

私は、
初めてお付き合いした男性と、
結婚したため、
母親からその言葉をかけられた時に、
お付き合いしていた男性が、
人生で二人目に付き合った男性でした。

私は自分の母親の、
自分に対する偏見に傷つき、
そしてそんな母親に反発する心から、
さらに、
娘をしっかり育てなければという、
悲壮な義務感を持ってしまったため、
大人になった娘から、

「お母さんは厳しかった」

と言われるほど、
娘を甘やかさないように育ててきました。

そんな生活を、
娘が結婚するまでの25年もの間、
続けてきた私は、

燃え尽き症候群

になってしまっていたのだと思います。

立ち直りのきっかけは『孤育て』の恐怖

私が休日に、
寝たきり生活を送るようになったのは、
もともと私に、

休日に一緒に過ごすような友人がいない

ということも、
大きな原因となっていました。

友人と呼べるような、
親しい人間がいなかった私は、
休日に家に閉じこもっていても、
誰かから呼び出されることも、
誰かにその状態を心配されることも、
無かったのです。

まして私は、
プロフィールにも書きましたが、
自分の生まれ育った家族(原家族)とは、
お世辞にも、
仲がいいとは言えなかったため、
家族から心配されることも、
ありませんでした。

そのためしばらくは、
休日はただひたすら、
寝て過ごすばかりだった私でしたが、
そのうちしっかり休みを取ることで、
体力が回復してきたのか、

「このままの自分ではダメだ」

と思うようになりました。

このまま休日を、
一人で寝て過ごしていたら、
働いている今はまだ、
人との繋がりがあるからいいけれど、
仕事を退職してしまったら、
社会から取り残された、
とても寂しい老人になってしまう、
と思いました。

社会から切り離される不安は、
離婚後に独りで子供を育てていた時に、

「このまま私が死んでも誰も気付かない」

と、
現在の仕事に就くまで、
暗澹たる思いに囚われていたため、
(このような状況を【孤育て】と呼ぶそうです)

「もう二度とあのような思いはしたくない」

と、
燃え尽きていた私に、
行動を促すきっかけとなりました。

「これからは職場だけではなく、
老後も社会と繋がれる居場所をつくろう」

そう考えた私でしたが、
でもその時の私の心は空っぽで、
自分が何をやったらいいか、
分かってはいませんでした。

そんな時に思い浮かんだのが、

「子供の頃に好きだったことは本当に好きなこと」

という言葉でした。

そして私は週末に、
老後まで社会と繋がれる場所を求めて、
子供の頃に好きだった、
絵を描くことを趣味にするため、
絵画教室に通うことにしたのでした。

絵を描く男の子

コロナ禍で考えた『自分の死』のこと

週末に絵画教室に通うという、
やる事が出来た私は、
一日中ベッドの上で、
スマホを眺める生活から、
脱却することが出来ました。

そして絵を描くということは、
子供の頃に好きだった事だけあって、
私は絵画教室に通う、
今まで、
絵を習ったことのない生徒達の中では、
少しだけ、
絵を描くことが上手な人間として、
他の生徒から、
認めてもらうこともでき、
私の低かった自己肯定感を上げる、
きっかけとなってもくれました。

でもそうなってきたら、
やっぱり人間、
欲は出てくるもので、
私は他の、
自分より絵を描くのが上手い生徒と、
自分の絵を比較して、
自分にダメ出しするようになりました。

そんな状況が苦しくて、
私は老後の自分の居場所作りのために、
絵画教室に通いだしたはずなのに、
絵画教室に通うのが、
億劫に感じるようになってきました。

それでも転勤で、
絵画教室のある県から他県に引っ越しても、

「老後の居場所作りのためなのだから、
同じ絵画教室に通わなくっちゃ」

と、
週末に数時間かけて、
同じ絵画教室に通っていたのですが、
今回起こったコロナ禍で、
県外への外出自粛を求められたこともあり、
そのことを良い口実として、
また週末は、
ベッドの上で寝たきりで過ごすように、
なってしまいました。

休日はベッドの上で、
ダラダラと過ごす自分のことを、
とてもダメな人間だと感じて、
絵画教室で向上した自己肯定感も、
また下がってしまったようでした。

そんな時、
志村けんさんがコロナにかかり、
急に亡くなったというニュースを聞いて、
私は突然、
自分の死というものが、
急に起こりえるものであるということを、
実感するようになりました。

「自分が死んだ時に、
誰かに悲しまれる人間でありたい」

悲しむ女性
(泣いてくれる人が1人でも居れば十分…)

そう感じた私は、
自分が死んだことさえ、
気付いてもらえないような、
家に閉じこもりっきりの、
今のままの自分ではダメだと思い、
今まで通っていた、
他県の絵画教室ではなく、
コロナ禍でも通える同じ県の絵画教室に、
通うことにしたのでした。

新しい絵画教室で感じた嫉妬心

新しく通い始めた絵画教室で、
私はまた、
習いたてにしては少しだけ、
絵を描くのが上手な生徒として、
楽しく絵画教室に通えるようになりました。

以前の絵画教室では、
上手い人と比べるから苦しかったのだと、
考えた私は、
今度通いだした絵画教室では、
展覧会に応募する生徒が多いのも手伝って、

「私は展覧会に応募しないのだから、
他の生徒と自分の絵を比べなくてもいい」

と自分が納得する理由をつけて、
自分の絵の技術を向上させることではなく、
楽しみながら描くことを主目的として、
絵画教室に通うようになりました。


(色調を学ぶために初めに描いた絵)

でも、そんな楽しい時間も、
長くは続きませんでした。

なぜなら、その絵画教室に、
美大進学を目指す高校生が、
入会してきたからです。

美大なんて先がないと、
反対する親を説得し、
自分の進みたい道に進もうとする、
その高校生に対して、
私は自分の心の中に、
とても醜い嫉妬心が湧き上がるのを、
感じずにはいられませんでした。

私は勉強が好きな子供でしたが、
すでに小学生の頃から、
母親に、

「お前は女だから、
行かせられるのは高校までだからね」

「高校を卒業したら働くんだよ」

と、
繰り返し言われて育ってきました。

それだけならまだしも、
1歳上の兄に対しては、

「男は今の時代、
大学くらい行っていないと」

と言い、
兄を大学に行かすことは、
確定していました。

大学どころか、
私は車の免許を取るための、
自動車学校の学費も、
自分でローンを組んで工面しましたが、
兄に対しては、
自動車学校の学費も、
両親は当たり前のように、
面倒を見ようとしていました。

妹である私との待遇差に、さすがに兄は良心が咎めたのか、
自動車学校の学費は、両親の申し出を断り、自分で払ったようでした。

そんな自分の過去の記憶と相まって、
働きながら自分が稼いだお金で、
絵画教室に通っている自分と、
親に美大に行かせてもらえる、
その高校生との境遇の差に、
私は妬む気持ちが、
抑えきれなかったのでした。

ネガティブな気持ちというポジティブな力

あんなに楽しく通っていた絵画教室が、
その高校生に会うことを思うと、
また辛く、
感じられるようになってきました。

でもコロナ禍で、
自分もいつ死ぬか分からないのだ、
と思った私は、
楽しくないからといって、
また家に引きこもりたいとも、
思いませんでした。

じゃあ、この妬む気持ちを、
どうしたらいいんだろう?

そう考えた時に思い出したのが、
孤育ての恐怖が、
きっかけとなって始めた、
最初の絵画教室通いと、
コロナ禍で、
自分の死を考えることを、
きっかけにして始めた、
新しい絵画教室通いでした。

私にとって、
ネガティブな気持ちは、
ポジティブな行動を起こす、
原動力になる。

そのことに気づいた私は、
この、
美大を目指す高校生に対する嫉妬心も、
自分の行動をポジティブに変える、
きっかけにすることにしました。

そして、
その時に読んでいた本の影響も手伝って、

アラフィフから画家になる

という、
子供の頃に諦めてしまった夢を、
追いかけることにしたのでした。

幸い、と言っては、
おかしいかもしれませんが、
自己肯定感の低い私は、
ネガティブな感情が、
よく巻き起こるので、
行動する原動力には事欠きません。

私は勝手に、
心の中で、
その高校生をライバル視することで、
画家になるという夢に向かって、
行動を起こしたのです。

絵を描く女性