幸せになる方法

可哀想な私?

日曜日から風邪をひいて、
月曜日に病院を受診したものの、
なかなか治ってくれません。

食欲が湧かず、
お茶なども飲めなくて、
ひたすら白湯を飲んでいます。

職場の皆んなが、
コーヒーを飲みながら休憩する中、
独り白湯をすすっている私。

そんな私を見て周囲の人は、

「白湯しか飲めないなんて可哀想」

と同情してくれるのだけど。

実は当の本人は、
自分のことを可哀想だとは、
全く思っていないのです。

なぜなら。

「白湯が美味しい」

と感じて飲んでいるから。

今の私の体は、
カフェインが入ったコーヒーやお茶の、
刺激を欲してはいなくって、
白湯の体への優しさにホッとして、
ほのかな甘みさえ感じています。

だから私は、
風邪で咳が出て頭が痛いのは辛いけど、
白湯しか飲めないことは、
ぜんぜん悲しくないのです。

白湯

(実はほんのり甘い白湯)

こんな時。

人って自分の価値判断で、
物事を見ているんだなぁ、って感じます。

自分が良いと思ったものが良くて、
その自分が良いと思ったものを、
相手も良いと思っていると、
思い込んでしまっている。

だから、コーヒーやお茶が飲めず、
白湯しか飲めない私を、
"可哀想"だと感じてしまう。

私は白湯しか飲めない自分のことを、

「自分の体が一番欲しているものを与えてあげられている」

と感じて、
そんな自分にとても満足しているのに。

これも1つの認知の歪みだよなぁ、
って思います。

そして。

発達障害者は、
認知の歪みが大きいと言われるけれど、
実はそんなことはなくて、
定型発達者も"思い込み"という、
認知の歪みをたくさん持っているけれど、
マジョリティ(多数派)である定型発達者は、
同じ"思い込み"を持っている人が大勢いて、
その思い込みが"普通"に、
なってしまっているから、
認知の歪みが、
目立たないだけなんじゃないのかなって、
考えたりしています。

数はチカラになるから。

こんな日常の些細なことを、
あれこれ考察してしまうのも、
発想の違いから、
当たり前のことに疑問を持ちやすい、
ASD(自閉スペクトラム症)
ならではでしょうか?

こんな私を職場の先輩は、

「面倒くさい」

と仰ってました。

でも。

人に面倒くさいと言われる自分の性分が、
実はとても大好きです。

人と同じなんてつまらないから。

友達に

「私に普通を教えてください」

と言った私が、
そんな自分と人との違いを、
前向きに捉えられるようになったのは、
きっと愛着障害を、
克服出来てきている自分がいるから。

今の私は、

「職場」「娘」「絵画教室」「ブログ」

という、
4つの居場所を持つことが出来ています。

そのことが、
私の心を豊かにして安定させてくれています。

だから。

かえって人の、

「白湯しか飲めないなんて可哀想。大丈夫?」

という同情の言葉を、
ありがたく感謝の気持ちで、
受け取ることが出来るのです。

愛着障害を抱え込んでいた頃は、
人に同情されることに、
とても屈辱を感じていたけれど、
それは自分でも自分のことを、

"惨じめで可哀想な存在"

だと感じていて、
人の同情にとても過敏に反応していたから。

今の愛着障害を克服し始めた私は、
自分が惨じめだから、
同情されている訳じゃなくて、
その言葉が相手の思いやりからきていると、
知っています。

だから、相手の同情の言葉に、

「ありがとう」

と素直に、
感謝の気持ちで応えられるのです。

そんな自分の心の成長を、
とても嬉しく感じます。

私に居場所を与えてくれた、
ブログで繋がってくれている皆さん、
ありがとうございます。

そしてこのブログが、
皆さんの心の居場所になれたら、
幸いに思います。