私の成育歴

マルトリートメントと私29.子供の限界

寝込む少女
私がなぜ、自分の生育歴を振り返るようになったのかは、私が自分の成育歴を振り返ることにした理由をご覧ください。
私の成育歴の記事一覧は、愛着障害に関する成育歴にあります。

※自分の記憶に基づいて書いているため、事実と違っている可能性があります。

私は自分の家族は敵だと心に決めたのですが、

もちろん、衣、食、住といった生活面や、
経済面で親に頼らないで生きていくことは、
その当時、小学校3年生だった子供には、
出来ないことでした。

だから、せめて、
精神面では頼らないようにしようと、
私はこのように決意しました。

「具合が悪くても絶対に言わない」

具合が悪いからと敵に頼る行為は、
行ってはならない、
と私は自分を戒めました。

この頃にはもう、
40歳を過ぎた今でも時折襲われる、
肋骨裏が引きつって、
痛みで息が出来なくなるような発作に、
頻繁に襲われていましたが、
私は決してそのことを、
自分の両親に伝えたりはしませんでした。

その発作が出た時には、
私は黙って前屈みになると、
酷い時にはうずくまり、
痛む肋骨の前の服をギュッと握りしめて、
奥歯をしっかりと食いしばり、
ただひたすら痛みが過ぎ去るのを、
じっと我慢して耐えていました。

私が家族は敵だと決心する以前から、
父は私の体調になど、
興味を示していなかったため、
元々具合が悪くても父に伝えることなど、
していませんでしたが、
自分を心配してくれていた母に対しても、
具合の悪さを伝えないというのは、
自分という人間を否定した母親に対する、
私の精いっぱいの意地でした。

そんな私の態度の変化は、
きっと母親には面白くなかったのでしょう。

私はこの頃から母親に、

「ブスッとしていて可愛くない」

と言われることが多くなってきました。

そんなことを言われても私は、
無言で母を睨み返すだけでした。

母のことを大好きだった分、
最初から諦めていた父に対する憎しみより、
自分を理解してくれない、
母に対する憎しみの方が、
強かったのだと思います。

きっと私が、
ASD(自閉スペクトラム症)ではなく、
単に父親からのマルトリートメントによる、
愛着障害を抱えただけの子供だったのなら、
母親からお前のことは理解出来ないと、
言われることもなく、
ここまで母親との仲がこじれることも、
無かったのかもしれません。

けれど私はASDの特性を持った子供で、
母親の望む、
普通の子になることは出来ませんでした。

私は敵だらけの家族の中で、
1人心を閉ざして暮らしていました。

護身用に、
ポケットに忍ばせたカッターナイフと、
いつか家を出るための資金が、
貯まることだけが、
私の心の支えでした。

けれど、そんな気を張った生活は、
長くは持ちませんでした。

どんなに具合が悪くても、
決して弱音を吐かずに生活していた私ですが、
小学校3年生の年末に高熱を出してしまい、
そんな私の様子の変化に気付いた母親から、
熱を測られ、
38度を超える高熱だったことが、
分かってしまいました。

その日は12月28日で、
殆どの病院が休診しており、
私は母親から、

「具合が悪いんだったら、何でもっと早く言わないの!!」

と怒られてしまいました。

(だって、あなたは敵じゃないか)

私は朦朧とした意識の中でそう答え、
母の心配が、
私の心に届くことはありませんでした。

結局私は両親に車で病院に運ばれて、
三日麻疹だったことが分かり、
病院で点滴を打ち、
それから家に帰ってきました。

以外なことに父は、
病気で弱っている私に対して、
とても気遣ってくれました。

私が寝込んでいる間、
退屈しないようにと、
家に1台しかないテレビを、
ずっと私が見ていられるように、
してくれました。

病気で食欲がなかった最初の日も、
私が食べたいものを聞いて、
その食べたいものを買ってきてくれました。

ほんの5日間ほどの短い間でしたが、
この家族の中で、
自分がこんなに大切にされて、
こんなに幸せに過ごせたことは、
ありませんでした。

ずっと頑なに、
この家族は敵だと思い続けてきましたが。

もしかしたら、
私の思い違いなのかもしれないと、
私はこの出来事で思うようになりました。

けれど、本当は。

それこそが私の思い違いで、
この後、もっと酷い状況になっていくことに、
私は全く気が付いていなかったのでした…

マルトリートメントと私30."弟か妹が欲しいか?"に続きます。