幸せになる方法

愛着障害克服のために誕生日に起こした行動の結果

年老いた父母

自分の誕生日に感謝の言葉を両親に伝えた結果

初めて自分の誕生日に感謝の言葉を伝えた時の両親の反応

黒電話

数年前に私は、
自分の誕生日に離れて暮らしている両親に対して、

「生んでくれて、育ててくれてありがとう」

と電話する、
という行動をおこしました。

本当は、
その言葉は私の本心という訳ではなかったし、
仲が良い訳でもなかった両親に対して、
こんな言葉を言うのは勇気が必要でした。

でも、私が自分の両親に感謝の言葉を伝えて、
両親との関係改善を図ることで、
私の成育歴から派生していると思われる、
自分の恨みがましい性格を修正しなければ、
今現在、自分の人生で起き続けている、
人間関係のトラブルに起因する生きづらさを、
解消することが出来ないと感じていた為、
たとえ自分の心の中に、
本当は両親に対する感謝の気持ちが、
湧き起こっていなくても、
とにかく両親に感謝している体で、
言葉を伝えることにしたのでした。

「生んでくれて、育ててくれてありがとう」

初めて電話でこの言葉を言った時は、
本当に緊張しました。

なにしろこの頃にはまだ、
私は自分が40年間も父に騙されていた、
とは気付いておらず、

母は私を生んだことで死にかけて体を悪くし
父もそんな母を助けるために命が危なかった

と幼い頃から父に言われていた言葉を、
信じこんでしまっていたからでした。

だから今までの私の人生の中で、
両親に誕生日を祝ってもらった記憶はなく、
父親に至っては、
私の誕生日どころか、
私の年齢さえ覚えようとしませんでしたが、
幼い頃の私は、
自分に対するそんな両親の態度をみて、
寂しく感じることがあっても、
その寂しさを口に出すことは、
ありませんでした。

むしろ、
私は望まれない存在なのだから、
と自分に言い聞かせ、
自分の出生を祝ってもらうことを、
諦めたフリを続けるうちに、
私の心は固い鉄の扉で閉ざされたように、
何も感じなくなっていきました。

小学生の頃に私は、自分の誕生日に、自分の貯めたお小遣いを母に渡して、自分の誕生日を祝うためのアイスケーキを買ってきて貰いました。
その時に、何と言って母が私にアイスケーキを渡してきたかは覚えていません。
ただ、黙々とそのアイスケーキを食べた記憶だけが残っています。

そんな過去を過ごしてきた私にとって、
自分の誕生日に母に対して、

「産んでくれてありがとう」

と感謝の言葉を伝えた時に、

「そういえばお前、今日、誕生日だったね」

と母が言ってきたことは、
当然予想の範疇だったため、

(やっぱりな…)

と思う程度の感慨しか湧かなかったのですが、
それでも母が、

「そんなこと言ってくれてありがとうねぇ」

と言葉を返してくれた時には、
勇気を出して良かった、
と思うことが出来ました。

そして、
母だけに感謝の言葉を伝えたのでは、
自分を蔑ろにされることを極端に嫌う父の、
機嫌を損ねてしまうし、
私のこの電話の目的は、
『両親との』関係改善であったため、
父にも感謝の言葉を伝えようと、
母に頼んで父に電話を替わってもらい、

「育ててくれてありがとう」

という言葉を父に伝えました。

人間性に問題があり、
人の言葉を捻くれて捉えることしかしない父は、
私の告げた言葉に対し、
素直な態度はとらなかったため、
父のリアクションの意味は、
よく分かりませんでしたが、
なんらかの感慨は受けているようでした。

そして私は、
勇気を出して両親にかけたこの電話で、

親子関係の改善の1歩を踏み出した

と感じることが出来たのでした。

自分の誕生日に感謝の言葉を伝え続けた私に対する両親の態度の変化


初めて、
自分の誕生日に両親に感謝の言葉を伝えて以降、
私は自分の誕生日に、
両親に感謝の電話をすることを、
自分の毎年の習慣とすることとし、
それを実行し続けました。

そうすると、
私が自分の誕生日に両親に感謝するのは、
両親にとって、
当たり前と捉えるようになったのか、
それを習慣化して3年が過ぎた時に、
私が自分の誕生日に掛けた電話に出た母親が、
父親から何の電話か聞かれたことに対し、

「じゅんの、誕生日のいつもの」

というような言葉を父親に返し、
私が告げたお礼の言葉に対しても、
母親からは、

「はい、はい」

と生返事をされるばかりで、
私に対するお祝いの言葉も無くなってしまい、
父親からは、

「そうなの、あなた様は今日がお誕生日だったの?

それは、おめでとう。
で、あなた様は今日、いくつになったの?」

馬鹿にする男
と馬鹿にした口調で、
嘲笑されながら言われた時には、
私はさすがに酷く傷つきました。

それまでの電話でも、
最初に感謝の言葉を告げた時以外、
両親から、
おざなりな対応をされているとは、
感じてはいたものの、
それでも生きづらい自分の人生を変えるために、
両親へ歩み寄ろうと必死で、
続けていた感謝の習慣だったのですが、
その習慣の中で私は1度も、
茶化したり馬鹿にしたりせずに、

「お誕生日おめでとう」

と父から言われることはありませんでした。

前述した父の、
「そうなの、あなた様は今日がお誕生日だったの?それは、おめでとう。
で、あなた様は今日、いくつになったの?」
という言葉は、明らかに私に対する揶揄を含んでいたため、こ
の記憶は私の中で父からお祝いを言われた記憶に分類されていません。

そうして私は、
自分のやっていることが虚しくなってしまい、
自分の誕生日に、
両親に感謝を告げるのをやめたのでした。

感謝の習慣を辞めて数年経った私へ母が言った言葉に感じたこと

心の壁
両親への感謝の習慣をやめて、
数年経っていたのですが、
私の誕生日だった先日、
私は久しぶりに、
自分を生んでくれたことに感謝する電話を、
母親にかけました。

そこには、
一緒に暮らしていた父親が亡くなって、
1人暮らしが寂しいと言っている母親を、
元気付けたいという想いがありました。

相変わらず母親は、
私が自分の誕生日だったことを告げると、

「そうだったねぇ」

と答えました。

私は以前、
私が伝えた感謝の言葉に対し、
母が『いつもの』と言って軽くあしらったことが、
本当に心の傷になっていたため、
自分から、

「また、いつもの感謝の電話だよ。
生んでくれてありがとう」

と告げました。

そうすると母は、
久しぶりだったからか、
初めて私から感謝の言葉を聞いた時のように、

「そんな風に言ってくれてありがとうねぇ」

と答えてきました。

そのことで私は、
自分の両親にとって私という人間は、
尽くせば尽くすほど、
当たり前だと捉えられて、
感謝されなくなる人間なのだと、
改めて感じ、
自分にとって両親は、

適度な距離感をとらなければ自分を傷つける相手

なのだと、
再認識することになりました。

私は幼い頃に何度も、
父や母に愛されたくて役に立とうと頑張っては、
その頑張りを、
父や母に当たり前だと認識されるようになって、
逆に頑張らないと責められる、
という状況に陥り、
やるせなくて、
すっかりお手伝いなど、
何もしなくなった自分の過去を、
思い出しました。

私が数年間に渡って意を決して行った、
自分の誕生日に両親に感謝を伝えるという行動は、
両親の心を変えることは出来ませんでした。

でも、その行動を起こしたことで、
私の中で変わったことが1つありました。

それは…

両親に対して私はやれるだけの行動をした

といった、
自分の行動に対する納得感でした。

だからこそ私は、
父が1年前に亡くなった時に、
父と完全に関係の修復が出来ていた訳では、
ありませんでしたが、
父に対して、

「ああすればよかった、こうすればよかった」

などという後悔は微塵もなく、
寧ろ清々しいくらいの気持ちで、
父の葬儀を終えることが出来たのでした。

私のこの、
自分の誕生日に両親に感謝する電話は、
普通の家庭で育った人からみたら、
とても他人行儀で、
奇妙な行動に思えるかもしれません。

でも私は、
自分から両親に感謝の言葉を伝えた時以外に、
たとえ馬鹿にした言い方だったとしても、
誕生日に、
両親からお祝いの言葉を聞いた記憶がありません。

そんな私にとって、
自分の誕生日は両親から祝ってもらう日ではなく、
自分を生んで育ててくれた、
両親に感謝する日だと位置づけることは、
誕生日を祝ってもらえない、
寂しさを感じる必要もなくなり、
感謝を伝えることで、
両親との関係の改善を図ることも出来る、
自分にとっては、
画期的な思考転換法でした。

なにしろ、
両親に相手にしてもらえないことに目を向けても、
恨みつらみが増すばかりで、
私の人生は一向に、
幸せにはならなかったからです。

それこそ、
以前受けた心理テスト(ミネソタ多面人格目録:MMIP)で、

  • ヒステリー尺度(第3尺度)
  • パラノイア尺度(第6尺度)
  • 統合失調尺度(第8尺度-エキセントリック)

という、
不穏な言葉が並ぶ尺度が、
高く出てしまうくらいには、
私の精神状態は良くありませんでした。

それにはやはり、
自分の生い立ちが影響していました。

でも、生い立ちは変えようがありません。

普通の家庭に育たなかったのだから、
普通を望んでも、
手に入れることは出来ません。

そう思っていたのに、
私はまだ、
自分が親との関係改善に努めることで、

普通の仲の良い親子

のようになれるのではないか、
と期待していたことに気付きました。

そして、そんな私が、
この数年に渡る両親への感謝の行動で得たものは、
皮肉にも、

親と仲よく過ごすことに対する諦め

だったのでした。

私が両親の誕生日を必ず祝うことにした結果

母の誕生日に私が電話する理由

母の誕生日

私の誕生日から2月ほど過ぎると、
母の誕生日がやってきます。

もう、何年も前から、
私は自分の誕生日に、
両親に対して、
感謝の電話をするだけではなく、
父と母の誕生日にも必ず電話して、

「誕生日おめでとう」

と伝えて、
両親からもう要らないと言われるまで、
必ずプレゼントを贈っていました。

私がこの習慣を始めたのも、
自分の人生を幸せにするためには、
両親との関係を改善しなければいけないと、
そう思ったことが発端でした。

自分の誕生日を、
父と母に祝われなかった私は、
いつしかその仕返しのように、
私も父と母の誕生日を忘れてしまっていたため、
私はたとえ自分が祝ってもらえなくても、
私は両親の誕生日を祝ってあげようと決心した時、
私は父と母の誕生日を、
スマートフォンの予定表に登録して、
忘れないようにしていました。

そして、この日の母の誕生日も、
昼間に1度母に電話したものの、
出なかったため、
夕方に再度母に電話して、
誕生日おめでとうと伝えたのですが、
昼間、
孫と娘と一緒にいる時に、
母におめでとうと伝えられなかったことが、
とても残念でなりませんでした。

なぜなら母と私の間には、
子供の頃に出来た心の壁があったため、
おめでとうという言葉以外に、
母と特に話すことが無かったからです。

そんな私からの電話だけでは、
いくらお祝いの言葉を述べたところで、
母を本当に喜ばせることは出来ないと、
私は感じていたのでした。

母に対して心の壁を作った出来事

ASD
私と母には、
愛着障害に絡む成育歴以外にも、
発達障害(ASD)グレーゾーンに絡む、
大きな心の壁になる出来事がありました。

それは、小学校低学年の時に、
私が母から言われた言葉が、
引き金になっていました。

ASD(自閉スペクトラム症)の中の、
アスペルガー症候群の、
グレーゾーンに該当する私は、
母には理解不能な子供だったらしく、

「お前のことは理解出来ないから、
もう、放っておくことにする」

と母から言われたことが、
私にはあったのです。

その頃の私は、
母のことが大好きで、
大好きな母が、
他の子と同じように出来ない自分をみて、
悲しむ姿を見ているのが辛かった私は、
なんとか母を悲しませないように、
他の子と同じように振舞おうとするけれど、
やっぱりどうしても同じように出来なくて、
そんな自分自身を、
責めることしか出来なかった私は、
この時、母から言われた言葉に、
これでもう、
母を悲しませなくて済むとホッとして、

「ありがとう」

と返事をして、
さらに母の怒りを買ってしまったのでした。

この出来事は、
家庭や学校の中だけでなく、
この世界で唯一の味方だと思っていた人間が、
私の世界から消え去った出来事でもありました。

私を操作しようとして言った母の言葉に対し、
母の望む答えが言えなかった私。

母を悲しませたくない思いで言った私の心を理解せず、
自分の望む答えが返ってこないと怒った母。

私と母の意思疎通は、全く出来ていませんでした。

大人になった今考えると、母のこの時の発言は、母に見限られることを恐れた私が、
「ごめんなさい。他の子と同じようにするから見放さないで」
と、母に泣きついて、私が変わることを期待していたと分かるのですが、わざと外れた行動をしていた訳ではなかった私は、母の言葉の意図を理解出来るようになった大人になった今でも、
「ありがとう」
以外に、その時の自分の素直な気持ちを適切に表現する言葉は無かったと思っています。

父の誕生日に私が父に尽くした理由

男性への贈り物
父とは意思疎通どころか、
会話をすること自体が、
私にとっては大きなミッションでした。

両親との関係改善を図るために
父や母の誕生日に電話をする時には、
私はいつも両親が望むであろう、
良い娘を演じて電話をかけていましたが、
元々、父からは、
女ということで存在自体が否定されていたため、
父にとっての良い娘などよく分からず、
父にとって私は、

父の誕生日にプレゼントをする人間

となり果てていました。

そのプレゼントさえも、
私が選んで渡しても喜ばないからと、
父の欲しいものを聞いて渡していたのですが、
父の細かい好みに合わないからとつき返され、
お店に交換に走ったこともありました。

そしてお店に交換にいったプレゼントを、
再度父に渡した時に言われたのは、

「そこに置いとけ」

という言葉でした。

父にとって私は一体何なのだろう…

そう考えたら、
涙が出そうになりました。

それでも私が父に関わろうとしたのは、
両親に愛してもらうことや、
自分を理解してもらうことを諦めて、
ただ表面だけでもいいから、
幸せな家族になることを望んでいたからでした。

それは、
19歳で子供を産み、
20歳でシングルマザーになった私が、

私にとって親としては認められなくても、
私の娘にとっては、
良い祖父母であろうとしてくれた

と感じた過去があったから、でした。

母との電話で私が感じた心の痛み

胸が痛む女性
これらの理由から私は、
両親に電話する時には話題に困らないよう、
いつも事前に、
楽しく両親が話せるような話題を用意していました。

何の用意もなく両親に電話をかけることなど、
私には出来なかったのです。

だから母の誕生日だったこの日は、
私は近くに住んでいる、
娘と孫と会うことになっていたため、
遠くに住んでいる母に、
電話で孫の声を聞かせてあげたら、
それが一番、
母が喜ぶ話題だと思って、
私は昼間に母に電話をかけたのです。

けれど、
昼間に電話が繋がらなかったため、
私は夕方、
家に1人でいる時に、
母と電話で話をすることになりました。

私の電話をとった母は、

「お前だろうと思ってた」

と言いました。

私が母に誕生日祝いの言葉を伝えると、

「覚えていてくれてありがとう」

と言いました。

その言葉に、
母が2か月前の私の誕生日を、
覚えていなかったことを思い出して、
私の胸は少しだけ、
ツキンと痛みましたが、
その後も私は楽しげな声で、
明るく最後まで、
話しをすることが出来ました。

昨年父が亡くなって、
1人ぼっちになった母が電話の中で、

「もう死んでもいい」

といった、
弱気な発言をした時も、
本当は、
私の心は痛んでいました。

それは決して、
母の弱気な発言を心配して、
といった優しい理由ではなく。

私にとっては、
酷い虐待をした父親でも、
母にとっては人生を生きる張りになる、
大切な人だったのだという事実が、
私をとても孤独な気持ちにしたからでした。

老い先短いであろう母に、
今さら自分が父から受けた虐待を、
話すつもりは、
もちろんありませんでしたが。

父と母の、
強い結びつきを改めて知らされて、
やはりこの家族の中には、
私が安心して居られる場所は無かったのだと、
思い知ることは、
46歳を過ぎた年齢でも、
やはり少し、辛いものでした。

でも、私と過ごす時間よりも、
父と過ごす時間の方が長かったのだから、
母にとっては、
当然の気持ちなのかもしれません。

両親に対して、
心の壁を持ち続けている私に願えるのは、

表面だけでも幸せな家族

だったのですから。

恐らく私より酷い、
発達障害であっただろう父に、
苦労させられた母が、
過去の父との出来事を、
今現在、
幸せだと感じることが出来るなら、
わざわざ私が、
異を唱える必要はないのでしょう。

母が私が父から受けた虐待の全てを、
知っている訳でもなく、
知っていても受け入れられず、
無かったことにしたこともあったのだから、
今さら母に、
私が父から受けた苦しみを訴えたところで、
母には響かないのでしょう。

母が私の苦しみを理解してくれないのは、
小学生の時に分かっていたこと。

子供の頃に大好きだった母が、
過去の想い出を美化し、
自分の人生は幸せだったと思ってくれるなら、
私が口出すことじゃない。

そう思いながらも私は。

父の死を悼む母の言葉に、
自分よりも父の方が大切だと言われたようで、
母へのお祝いの電話を切った後、
1人静かに涙を流したのでした。