先日受けた心理セラピーの講座で、
アシスタントの方に言われて、
ハッとした出来事がありました。
その時はグループで、
ディスカッションをしていたのですが、
子どもの頃のことを話していた時に、
「小さい頃は、よく親から、
泣くなって怒られてたよね〜」
と軽く言ったら、
「そうそう、こっちだって、
泣きたくて泣いてた訳じゃないのにね」
「昔のお父さんやお母さんは、
厳しかったよね〜」
と、同年代ばかりで境遇が似ていた私達は、
共感し合って、
かなりワイワイと盛り上がっていました。
その口調には、
子どもの頃を懐かしむ、
郷愁の思いさえ感じられるほど。
でも、共感ネタで、
楽しく語り合っていた私達に、
アシスタントの方は、
とても鋭いひと言を言われました。
「皆んな、感情を口に出すことを、
禁止されてたんだね」
その言葉に、
私はハッとしてしまいました。
だって、
楽しく話していた子ども時代の出来事が、
そのひと言で、
とても辛い思い出だったことに気付いたから。
誰もしばらく口を開かなかったので、
きっと皆んな同じ思いだったんじゃないか、
と思います。
子どもの頃のことだから。
もう昔のことだから。
そう思って笑って話していたけれど。
アシスタントの方の、
ひと言で沈黙が落ちてしまうくらい、
本当は皆んな悲しくて傷ついていた出来事。
大人になったから大丈夫なんて、
そんなことはなくて。
本当はずっと、
親から怒られる事で、
心の中に閉じ込めてしまった、
子どもの頃の悲しい気持ちを、
皆んな心の奥に持っていて。
だから「親から怒られた」なんていう、
ほんの些細なひと言で、
皆んな色んな思い出が溢れ出してきたのだ、
ということ。
本当はその出来事で、
自分が悲しかったことを知って欲しくて、
あんなに話が盛り上がっていたのだ、
ということ。
アシスタントの方が教えてくれなかったら、
わたしはまだ自分が、
子どもの頃の悲しさを引きずっていることに、
気付くことが出来ませんでした。
こうやって、
わたしは色んな自分の気持ちに気付かずに、
流してきてしまったんだろうな。
そんな風に思った私は、
「泣くな」以外にもう1つ、
とても強力に私の人生を支配してきた、
言葉があったことに気づきました。
それは、やっぱり、
子どもの頃に泣いている時に言われた、
「世の中にはもっと大変な人がいっぱいいる」
という言葉。
わたし、この言葉を言われると、
自分が悲しむことさえ出来なくなりました。
だって、
「世の中にはもっと大変な人がいっぱいいる」
から。
わたしに起こる位の出来事は、
大したことではなくて、
そんなこと位で泣いていたら、
もっと大変な人達に申し訳ないから。
そんな風にわたしに思わせてしまい、
自分が悲しいという感情を、
抱くことにさえ罪悪感を呼び起こさせた、
この言葉のおかげで、
わたしは自分に、
どんなに辛いことや悲しいことがあっても、
「世の中にはもっと大変な人達がいるんだから」
これ位のことで「泣いてはいけない」
そんな風に思って、
本当は悲しい自分の心に蓋をして、
もっと酷い状況の人達と自分を比べて、
私はまだ幸せなのだと、
感謝するように生きてきました。
わたしの本当の心の底には、
悲しみが残っているのに。
この方法のスゴいところは、
ある程度人生が、
上手くいってしまうところ。
自分は幸せだと思い込むことによって、
うっすらと幸せな感じがしてくるから、
「この方法で良いんだ、
この方法で幸せになれるんだ」
と錯覚してしまうのです。
本当は自分は可哀想だなんて、
気付きたくないから、
幸せだと思う方が苦しくないものね。
だから、本当は悲しいのに、
その上に薄い幸せをのせて、
悲しみを見なかったことにする。
わたし、本当にこの作業が上手でした。
どんな出来事からも、
感謝出来るポイントを、
無意識に探し出してしまえるくらい。
だから。
わたしはずぅっと、薄い幸せなままでした。
幸せだって言いながら、
本当に心から、
「わたしは幸せ」って実感することが、
出来なかった。
感覚で幸せが分からないから、
自分の状況より大変な人と比較して、
「わたしは幸せなんだ」
って、思考で自分を納得させてた。
でも、もうやめます。
幸せは頭で理解するものじゃなくて、
体感するものだって言われて、
どこかで納得してる、
その体験に憧れる、わたしがいます。
わたしにはまだ、幸せは体感出来ないけれど。
泣きたいのに、
泣くなって言われて悲しかったこと。
嫌なことを強要されて、イヤだったこと。
そんな、ネガテイブと言われる気持ちは、
体感することが出来るから。
まず、自分のネガテイブな感情を、
ちゃんと感じてあげることで、
幸せの体感への第一歩を、
踏み出そうと思います。