幸せになる方法

“「才能ある」発達障害になりたかった”という思いに対する私なりの向き合い方

発達障害者に対する周囲の偏見から私の中に生まれた「才能ある」発達障害になりたかったという思い

私は自分の生きづらさの理由が知りたくて、
精神科を受診して発達障害の検査を受け、

「ASD(自閉スペクトラム症)の可能性が高い」

との診断を得ました。

アスペルガー症候群は、
アメリカ精神医学会が発行している、
DSMという、
精神障害の分類と、
診断基準を示している書籍において、
第4版までは、
広汎性発達障害に分類されていましたが、
第5版において、
ASD(自閉スペクトラム症)に一本化されました。

私が以前、
自分は発達障害ではないかと、
あるセラピストに相談した時に、

「発達障害の症状は誰にでもあるものなのに、
そんなに障害者になりたいの?」

という、
とても頓珍漢な返答を受けて、

「人を救おうとしているセラピストでさえ、
このレベルの考えか」

と、絶望したことがあったのですが、
私がこの言葉の次に、
自分が発達障害ではないかと、
相談した相手から、
言われて絶望した言葉が、

「じゃあ何か、スゴイ才能があるんでしょう?」

というものでした。

前者は発達障害者というものを、

「誰にでもある症状で障害だと言う甘えた人」

と捉えていて、
後者は、

「発達障害者は人と違う何か凄い才能を持った人」

という、
どちらもネガティヴかポジティブかという差はあるものの、
発達障害者に対して、
非常に偏見を持った人達でした。

けれど、これが、

発達障害者に対する偏見の代表的なもの

ではないか、
と思います。

そして、発達障害者、
または、
自分を発達障害者だと思っている人自身も、
自分の生きづらさや特性を、
プラスに変えている、
才能のある発達障害者を羨み、

「自分も才能ある発達障害者になりたかった」

と思い、
生きづらさに対する苦しみに加えて、
発達障害の特性はあるのに、
特別誇れる才能の無い自分に、
更に落ち込んでしまうという、
悪循環を起こしている発達障害者は、
ネットなどを見ていると、
私を含めて、
多いように思います。

もちろん。

才能を活かして活躍している方は、
ただその才能の上に、
胡坐をかいているのではなく、
その才能を世間に認められるために、
多大な行動(努力)を、
しているのだと思います。

けれど発達障害者は、まず、

自分に合った環境でなければ、
厄介な人間という評価を受けてしまい、
自分を活かすことは出来ない

し、
今のように、
発達障害という言葉が浸透しておらず、
自分が発達障害とは知らずに、
大人になってしまった私のような世代は、

よほど周囲の協力か、強運がない限り、
自分の特性に合った環境で生育し、
その才能を伸ばす行動(努力)をすることは困難だった

と思います。

私は40歳を過ぎた今、
自分の特性を活かした生活をしようと、
試行錯誤しているところですが。

それも今まで、
自分自身の努力と強運で。

何とか2次障害を発症することなく、
自分の力で生活出来る経済的基盤を、
手に入れられたからこそ、
なのです。

自分の人生が辛くて辛くて、
20歳の時に自殺未遂をして、
その後就職してからも、
必ず周囲の人間から虐めを受けてきた私は、
同じようにアスペルガー症候群を抱えて、
人とのコミュニケーションに躓いてしまい、
2次障害を発症して、
働けなくなってしまった人達の気持ちが、
とてもよく分かります。

私も特別な才能が欲しかった。

周囲の人間と上手くいかなくても、
生きていける才能が欲しかった。

そんな特別な才能が無かった私は、
自分を生きやすくするために、
アサーション・トレーニングなどを受けて、
社会と折り合いをつけて生きる術を、
現在、身につけているところです。

このような、

"「才能ある」発達障害者になりたかった"

という思いは、
生きづらさを抱えたアスペルガー
(現在はASDに統一されています)が、
一度は感じるものではないか、
と思うのです。

才能のない発達障害者の私が、それでも自分を肯定するために行ったこと

近年、発達障害という言葉が注目され、
それに合わせて、
発達障害者がテレビ番組などで、
特集されるようになりました。

そして、そんな番組で紹介される、
発達障害者は大抵、
特異な才能を持っている人が多いため、
そんな番組を視聴するたびに私は、

「私も才能ある発達障害になりたかった」

という、
羨望と嫉妬の入り乱れた、
忸怩(じくじ)たる思いを、
感じていました。

でも、そんな思いを抱えていても、
自分が生きづらい現実は、
変わらないため。

世間からその性質を受け入れられず、
父親からも生を喜ばれなかった私が。

自分だけでも、
自分の生を祝福してあげるために。

才能は無いかもしれないけれど、
私の生涯を通じて、

「これをやりきった」

と言えるものを持ちたくて、
絵画教室にもう4年ほど通っています。

なぜ絵画教室かというと、
人に合わせすぎたがために、
自分の好みさえ分からなくなっていた私が、
自分を取り戻すためには、
子供の頃に好きだったことをやるのが、
一番いいのではないか、
と考えたからです。

それが"絵を描くこと"でした。

絵を描いている時は、
社会生活で感じている、
色々な煩わしいものを忘れるため、
心のリフレッシュに役立っています。

今日も絵画教室に行って、
モデルさんを描いてきました。

女性のデッサン
描く時間が終わると、
皆んなの前で、
先生から講評をされるのですが、
今日は私の良いところ、
ダメなところ、
両方教えていただきました。

その時に、

「私の自己肯定感、上がったなぁ」

と、私が自分で感じたこがありました。

以前の私は、
自分の絵のダメなところを指摘されたら、
凹んでしまい、

「先生の指摘なんて聞きたくない!!」

って思ってしまっていたけれど、
今の私は、

「私が出来ると思っているから、
先生は指摘してくれるんだ」

と思えるようになったのです。

これは私が勝手に思っていることで、
先生が本当にこんなことを、
思っているかは分からないのだけど。

大切なのは真実ではなくて、
私の心が前向きであることだから。

敢えて、私の考えが正しいかを、
先生に確認はしません。

でも、そんな風に、
考え方が変わったおかげで、
1年以上絵が上達せず、
停滞期と先生に言われていた私が、
また少しずつ、
先生に絵を褒めていただけるように、
なってきました。

伸びない間は苦しかったけれど、
絵を描き続けて良かった、と思います。

「絵を描く」

という才能は無いかもしれないけれど、

「好きなことをやり続ける」

という才能さえあれば、
自分を幸せで満たすことは出来る、
と思うので。

そこを目指して。

好きなことを続けていこう、
と思います。