特性を活かした活動

マイノリティな自分を貫く姿は格好いい

マイノリティ

私はもう5年ほど、
絵画教室に通っています。

その絵画教室の先生は、子どもの頃に、

「画家になる!!」

と決めて、本当に画家になっている、
とてもパワーのある方です。

その先生の描く絵が好きで、
その絵画教室に通っている私にとって、
先生の言葉は、
とても大きな影響力を持ちます。

だから先生に、
好きな画家をいっぱい持つと良い、
と言われた時、
私はネットで自分の好みの絵を探して、

「これだ!!」

と思う画家を先生に伝えたのです。

それはイギリスの画家、
エドワード・ロバート・ヒューズの

「真夏の夜」

という一枚の絵画。

エドワード・ロバート・ヒューズ「真夏の夜」
自分が子どもの頃に視て感じていた、
その世界がそのまま、
写しだされたように感じた1枚。

私、この絵が好き。

この画家が好き。

そんな、とっても素敵な宝物に、
出会えたような気持ちで、
私は先生に、
自分の好きになった画家を伝えました。

けれど、そんな私の気持ちは、
先生のこの言葉で萎んでしまったのです。

「自分はかなり画家に詳しい方だけど、
そんな名前の画家は知らない」

先生が画家として凄いと認めているのは、

セザンヌやピカソといった、
絵に興味がない人でも知っているような、
本当に世界の巨匠。

そんな先生に対して私は、
自分が大好きだと思った、
エドワード・ロバート・ヒューズの絵を、
見せることも、

「私もこんな絵が描ける人になりたいんです」

という言葉も伝えられないまま、

「わたしはまだ、
本当に良いものを見つける目を、
養えてはいないんだ」

という考えを持つようになってしまいました。

けれど、それからも、
他に好きな画家を見つけては
先生にその画家の名前を伝えていたけれど、

先生の答えはすべて、

「そんな画家の名前は初めてきいた」

というものばかり。

だからといって先生は、決して私の好みを否定していた訳ではありません。こんな主流に乗らない人間も必要だと、言ってくれていました。

同じ絵画教室に通う、
絵の好きな人達に話しても、
私の好きな画家達を知っている人は、
いませんでした。

私は変わっている、
と言われることが多くて、
色んな好みも、
人と合うことが少ないのだけど、

「変わっている」

と言われた経験のある人が多い、
絵画教室に通う人達の中でも、
自分の好みはマイノリティなのだと思うと、
さすがに少し寂しくなりました。

だってやっぱり、
自分が好きだと思ったものを、
同じように好きだと思ってくれる仲間に、
出会いたいじゃないですか。

でも、最近、こんな記事に出会ったのです。

作品だけ知られ、名は忘れられた画家:巨匠ヒューズ

このブログを書かれた方の、
記事に載っているヒューズの絵、
私はどれも大好きだったのですが、
私の目を惹きつけたのは、

【ヒューズの「Wings of the Morning (朝の翼)」と題する絵が、オークションで£362,000 (6,670万) の値がついた。】

という言葉でした。

それは、何百億という値がつく、
セザンヌやピカソの絵と比べてしまったら、
とても世界中で認められているとは、
言えないけれど、
それでも何千万という大金を出して、
ヒューズの絵を買った人がいたということが、
私にはとても嬉しくて、
ワクワクする出来事だったのです。

世界中の『大勢の人』(マジョリティ)に、
知られていなくても、
世界の中の『一部の人』(マイノリティ)が、
好きだと思ってくれるなら、
それは決して孤独で寂しいことではないから。

私と同じものを好きだと感じる感性を持つ人は、
世界に目を向けたなら、一定数はいるのだと。

私は決して独りではないということを、
この記事は私に教えてくれたのです。

そして、すでに時代遅れとみなされていた、
ラファエル前派の形式を、
ヒューズが最後まで変えなかった、
というこちらの記事を読んで、
私は心の底からこう思ったのです。

「マイノリティを貫く姿は格好いい」

もしヒューズが自分の描く絵は時代遅れだと、
描く題材や形式を変えてしまっていたとしたら、
私は自分が子どもの頃に視て感じていた情景に、
大人になってもう一度、
出会うことは出来ませんでした。

私にとって、大切なのは、
大勢の人に認められることではなくて、
自分の好きなものを共有できる相手に出会うこと。

その為には、

ちゃんと自分の【好き】を表現することが必要

なのだと。

だからちゃんと。

マイノリティな自分を認めてあげようと、
思えたのでした。